桑嶋健一『不確実性のマネジメント―新薬創出R&Dの「解」―』 ― 2017/05/05
桑嶋健一『不確実性のマネジメント―新薬創出R&Dの「解」―』(日経BP社、2006年)
「千三つ」は1000のうち3つしか本当のことがない嘘つきや、1000のうち3つしか話がまとまらないという不動産屋などの例えとして使われるが、新薬の世界ではこれより当てのならない「三万に一つ」である。新薬を開発するために調べる化学物質約2万から3万種類に対してようやく1つの新薬ができると言われているのだ。
このように成功確率の低い新薬開発を、製薬各社はどのようなアプローチで進めているのかを経営学の観点から論じた本である。
2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智さんは、アフリカの風土病を予防できる劇的な新薬を開発した方だった。受賞直後には大村さんに焦点をあてたテレビ番組があったが、新薬開発にはこのような研究者じたいの意欲・能力だけでなく製薬企業の研究体制、方針、意思決定などが大きくかかわっている。
本書で印象に残っている主なことは、新薬開発のアプローチが往々にして「ゴミ箱モデル」にあてまはること、新薬開発を効率よく行っている企業において入口を広くして多くの化学物質にあたりながらも絞り込みを適切に行って確実に新薬につなげる開発プロセスを実施していることだ。
ゴミ箱モデルとは、標準的な意思決定のモデルになじまない曖昧な状況、つまり「問題」「解」「参加者」「選択機会」などがそれぞれ独立して存在し、互いに無関係な状態が前提になる。意思決定に関わる人たちがまるでゴミ箱にゴミを投げるように「問題」や「解」を投げ入れ、解決に必要なエネルギーがたまったときに、あたかも満杯になったゴミ箱が片づけられるかのように選択機会が片づけられて決定が行われると考えられるという意思決定モデルである(63-64ページ)。
著者はその開発過程がゴミ箱モデルにあてはまるものとして、多くの職場で使われているポストイットを例に挙げている(61-63ページ)。
これは米国のスリーエムで働く研究者スペンサー・シルバー氏が開発した接着剤が発端だった。シルバー氏は「しっかり着く」接着剤を目指して開発を進めていたが、「しっかり着くが、簡単にはがれる」接着剤が出来上がってしまった。しばらく失敗作として放置されていたが、開発されてから5年後に、コマーシャル・テープ事業部で働くアート・フライ氏が聖歌隊で讃美歌を歌っている際に、栞が落ちるのを見てたまたまこの接着剤のことを思いついた。「しっかりくっついて、容易にはがれるあの接着剤を栞に使えば、栞が落ちずにすむのではないか」こうして1980年に「ポストイット」として売り出されたがこの商品が大ヒットして今でも多く使われていることは、このブログを読むあなたもご存じだろう。
自動車や電化製品など多くの開発では、解くべき「問題」「課題」が先にあり、それを解決するために「開発手段」が用いられて、「解」として新製品が開発されるという経緯をたどるのに対して、このポストイットでは「しっかり接着できるが、簡単にはがれる」接着剤という「解」が先にあり、それに対して「栞」に使うという「課題」が後から発見されている。「問題」「解」「開発」がそれぞれ独立に存在して、たまたま結びついて新製品となるわけだ。
同様に新薬開発現場でも、「アイロンを開発しようとしてポットが出来上がる」ような経過をたどる。
エーザイ株式会社で研究員であった杉本八郎氏は、母親が認知症にかかったことにショックを受け、これを治療する薬を開発しようという強い決意で研究をスタートさせた。
研究が始まった1982年にはまだアルツハイマー型認知症のメカニズムが解明されておらず、記憶に関係する神経伝達物質アセチルコリンの減少が影響しているのではないかという仮説の段階。杉本氏はアセチルコリンを分解してしまう酵素(アセチルコリン・エステラーゼ)の働きを阻害する物質を開発すべく多くの化合物を合成し、検査した。アセチルコリン・エステラーゼ阻害薬としてTHAという物質が知られていたが、これは特許をとられているため別の化合物で同様の働きを行うものを探さねばならないのである。来る日も来る日も化合物を探索するが一向に発見できず、杉本氏は「撃墜王」と呼ばれるようになる。「撃墜」とは、この業界で化合物が失敗することを言う言葉であった。ところが、杉本氏の研究室で動脈硬化という別テーマで研究されていた物質「C35-808」にアセチルコリン・エステラーゼ阻害機能があることが判明。これをリード化合物として、約700の誘導体をつくり、その中でも有効な成分を持つ「11D189」が選ばれた。ところがこの物質の「生体利用率」がわずか2%と低いことが判明し、開発中止の決定がされてしまう。なお、生体利用率とは、投与された薬品が肝臓で分解されずに患部(病巣部分)にたどりつく割合であるが、最低でも10%以上ないと薬として使いものにならない。杉本氏や研究チームのメンバーはあきらめきれず「1年だけ」という条件付きで開発継続が認められた。1986年12月、「薬効」「安全性」「生体利用率」などすべての面で目標を満たす物質「E2020」を発見。前臨床試験、臨床試験フェーズ1、2、3を経て、最初に米国食品医薬品局FDAで承認され1997年12月に「アリセプト」として発売。日本では1999年11月に発売された。動脈硬化に効くとして研究されていた化合物がアルツハイマー型認知症の薬になったのであった(39-49ページ)。
このように「どの化合物がある病気に有効に作用するか」を研究する「上流」では研究者個人の能力や情熱、偶然、などに左右されるが、医薬品研究開発の「下流」では企業がどのようにマネジメントするかで成果が異なる(第3章 医薬品開発における競争優位の源泉は何か?)。著者によれば「go or no-goの判断」が大きな要因になっている。
筆者は武田薬品工業を取り上げて、市場発売までたどり着く可能性がありそうな化合物全てを対象として臨床試験を進めれば大幅なコスト高となり、かといって「間違いなく成功する」化合物にしぼって臨床試験を行うのなら、市場発売までたどり着く可能性のある化合物を「間違って落としてしまう」可能性があるというジレンマにどう取り組むか、述べている。そのため「大きく網をはってタイミング良く絞り込む」ことが必要になるが、この点で武田薬品工業は当時の国内企業の中で一番すぐれているのである。
ちなみに本書が発行されたのは2006年だが、それ以降国内医薬品メーカーは合併や外資との合弁が進んでいるため、今年2017年とは国内医薬品メーカーの状況が異なっている。
また、医薬品が他の製品の開発と大きく異なるのは、臨床試験段階に至って不具合が出ても、化合物を多少改良して臨床試験するというわけにはいかない点である。化合物に不具合が見つかれば開発中止となって、また1から物質を開発しなおす必要があるのだ。
医薬品開発の「下流」にあっては開発コストが無視できない。臨床試験はフェーズ1、2、3と分けられており、フェーズ1は少数の健康な人を対象に行ない、臨床試験フェーズ2(前期・後期)では少数の患者を対象とし、フェーズ3では多数の患者を対象とする。フェーズ1では多くて数億円かかり、フェーズ2(前期)では10億円程度かかる。ところが、フェーズ2後期では臨床費用がかさみ、厚生労働省への申請データ作成や生産準備などの費用がさらに大きくかかり、フェーズ3では数十億円から100億円ともいわれる多額の費用がかかってしまう。このためフェーズ2前期までは幅広く化合物の研究と臨床試験を行うが、フェーズ2後期に入る際に「確実に上市できる化合物」に絞り込むことが最適な選択となる。
筆者は「生存時間解析」「生存確率」という手法を使って、国内各社がどれだけの医薬品開発プロジェクトを行い、それがどれだけの割合まで絞り込まれて、最終的に市場販売まで成功しているかを国内企業について比較している。当時、国内医薬品メーカーの中で武田薬品工業の評価が高く「医薬品のトヨタ」と称されていたけれども、確かに武田薬品工業こそが幅広く臨床試験フェーズ1、フェーズ2前期を進めるが、ここで絞り込みを行い、フェーズ3に進んだ化合物については全て市場販売まで実現させており、フェーズ2終了後から上市までの成功確率は国内メーカー第1位である(93ページ図3-1、表3-5)。
武田薬品工業が「大きく網を張って、タイミング良く絞り込む」ことができる背景には因果関係知識の蓄積と、意思決定システムの点で優れていることが挙げられ、かつ絞り込み戦略でも優れていることも重要である(94-100ページ)
劇的な新薬を開発する現場について、経営学の観点から読み解くことが出来たことは大変興味深かった。
「千三つ」は1000のうち3つしか本当のことがない嘘つきや、1000のうち3つしか話がまとまらないという不動産屋などの例えとして使われるが、新薬の世界ではこれより当てのならない「三万に一つ」である。新薬を開発するために調べる化学物質約2万から3万種類に対してようやく1つの新薬ができると言われているのだ。
このように成功確率の低い新薬開発を、製薬各社はどのようなアプローチで進めているのかを経営学の観点から論じた本である。
2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智さんは、アフリカの風土病を予防できる劇的な新薬を開発した方だった。受賞直後には大村さんに焦点をあてたテレビ番組があったが、新薬開発にはこのような研究者じたいの意欲・能力だけでなく製薬企業の研究体制、方針、意思決定などが大きくかかわっている。
本書で印象に残っている主なことは、新薬開発のアプローチが往々にして「ゴミ箱モデル」にあてまはること、新薬開発を効率よく行っている企業において入口を広くして多くの化学物質にあたりながらも絞り込みを適切に行って確実に新薬につなげる開発プロセスを実施していることだ。
ゴミ箱モデルとは、標準的な意思決定のモデルになじまない曖昧な状況、つまり「問題」「解」「参加者」「選択機会」などがそれぞれ独立して存在し、互いに無関係な状態が前提になる。意思決定に関わる人たちがまるでゴミ箱にゴミを投げるように「問題」や「解」を投げ入れ、解決に必要なエネルギーがたまったときに、あたかも満杯になったゴミ箱が片づけられるかのように選択機会が片づけられて決定が行われると考えられるという意思決定モデルである(63-64ページ)。
著者はその開発過程がゴミ箱モデルにあてはまるものとして、多くの職場で使われているポストイットを例に挙げている(61-63ページ)。
これは米国のスリーエムで働く研究者スペンサー・シルバー氏が開発した接着剤が発端だった。シルバー氏は「しっかり着く」接着剤を目指して開発を進めていたが、「しっかり着くが、簡単にはがれる」接着剤が出来上がってしまった。しばらく失敗作として放置されていたが、開発されてから5年後に、コマーシャル・テープ事業部で働くアート・フライ氏が聖歌隊で讃美歌を歌っている際に、栞が落ちるのを見てたまたまこの接着剤のことを思いついた。「しっかりくっついて、容易にはがれるあの接着剤を栞に使えば、栞が落ちずにすむのではないか」こうして1980年に「ポストイット」として売り出されたがこの商品が大ヒットして今でも多く使われていることは、このブログを読むあなたもご存じだろう。
自動車や電化製品など多くの開発では、解くべき「問題」「課題」が先にあり、それを解決するために「開発手段」が用いられて、「解」として新製品が開発されるという経緯をたどるのに対して、このポストイットでは「しっかり接着できるが、簡単にはがれる」接着剤という「解」が先にあり、それに対して「栞」に使うという「課題」が後から発見されている。「問題」「解」「開発」がそれぞれ独立に存在して、たまたま結びついて新製品となるわけだ。
同様に新薬開発現場でも、「アイロンを開発しようとしてポットが出来上がる」ような経過をたどる。
エーザイ株式会社で研究員であった杉本八郎氏は、母親が認知症にかかったことにショックを受け、これを治療する薬を開発しようという強い決意で研究をスタートさせた。
研究が始まった1982年にはまだアルツハイマー型認知症のメカニズムが解明されておらず、記憶に関係する神経伝達物質アセチルコリンの減少が影響しているのではないかという仮説の段階。杉本氏はアセチルコリンを分解してしまう酵素(アセチルコリン・エステラーゼ)の働きを阻害する物質を開発すべく多くの化合物を合成し、検査した。アセチルコリン・エステラーゼ阻害薬としてTHAという物質が知られていたが、これは特許をとられているため別の化合物で同様の働きを行うものを探さねばならないのである。来る日も来る日も化合物を探索するが一向に発見できず、杉本氏は「撃墜王」と呼ばれるようになる。「撃墜」とは、この業界で化合物が失敗することを言う言葉であった。ところが、杉本氏の研究室で動脈硬化という別テーマで研究されていた物質「C35-808」にアセチルコリン・エステラーゼ阻害機能があることが判明。これをリード化合物として、約700の誘導体をつくり、その中でも有効な成分を持つ「11D189」が選ばれた。ところがこの物質の「生体利用率」がわずか2%と低いことが判明し、開発中止の決定がされてしまう。なお、生体利用率とは、投与された薬品が肝臓で分解されずに患部(病巣部分)にたどりつく割合であるが、最低でも10%以上ないと薬として使いものにならない。杉本氏や研究チームのメンバーはあきらめきれず「1年だけ」という条件付きで開発継続が認められた。1986年12月、「薬効」「安全性」「生体利用率」などすべての面で目標を満たす物質「E2020」を発見。前臨床試験、臨床試験フェーズ1、2、3を経て、最初に米国食品医薬品局FDAで承認され1997年12月に「アリセプト」として発売。日本では1999年11月に発売された。動脈硬化に効くとして研究されていた化合物がアルツハイマー型認知症の薬になったのであった(39-49ページ)。
このように「どの化合物がある病気に有効に作用するか」を研究する「上流」では研究者個人の能力や情熱、偶然、などに左右されるが、医薬品研究開発の「下流」では企業がどのようにマネジメントするかで成果が異なる(第3章 医薬品開発における競争優位の源泉は何か?)。著者によれば「go or no-goの判断」が大きな要因になっている。
筆者は武田薬品工業を取り上げて、市場発売までたどり着く可能性がありそうな化合物全てを対象として臨床試験を進めれば大幅なコスト高となり、かといって「間違いなく成功する」化合物にしぼって臨床試験を行うのなら、市場発売までたどり着く可能性のある化合物を「間違って落としてしまう」可能性があるというジレンマにどう取り組むか、述べている。そのため「大きく網をはってタイミング良く絞り込む」ことが必要になるが、この点で武田薬品工業は当時の国内企業の中で一番すぐれているのである。
ちなみに本書が発行されたのは2006年だが、それ以降国内医薬品メーカーは合併や外資との合弁が進んでいるため、今年2017年とは国内医薬品メーカーの状況が異なっている。
また、医薬品が他の製品の開発と大きく異なるのは、臨床試験段階に至って不具合が出ても、化合物を多少改良して臨床試験するというわけにはいかない点である。化合物に不具合が見つかれば開発中止となって、また1から物質を開発しなおす必要があるのだ。
医薬品開発の「下流」にあっては開発コストが無視できない。臨床試験はフェーズ1、2、3と分けられており、フェーズ1は少数の健康な人を対象に行ない、臨床試験フェーズ2(前期・後期)では少数の患者を対象とし、フェーズ3では多数の患者を対象とする。フェーズ1では多くて数億円かかり、フェーズ2(前期)では10億円程度かかる。ところが、フェーズ2後期では臨床費用がかさみ、厚生労働省への申請データ作成や生産準備などの費用がさらに大きくかかり、フェーズ3では数十億円から100億円ともいわれる多額の費用がかかってしまう。このためフェーズ2前期までは幅広く化合物の研究と臨床試験を行うが、フェーズ2後期に入る際に「確実に上市できる化合物」に絞り込むことが最適な選択となる。
筆者は「生存時間解析」「生存確率」という手法を使って、国内各社がどれだけの医薬品開発プロジェクトを行い、それがどれだけの割合まで絞り込まれて、最終的に市場販売まで成功しているかを国内企業について比較している。当時、国内医薬品メーカーの中で武田薬品工業の評価が高く「医薬品のトヨタ」と称されていたけれども、確かに武田薬品工業こそが幅広く臨床試験フェーズ1、フェーズ2前期を進めるが、ここで絞り込みを行い、フェーズ3に進んだ化合物については全て市場販売まで実現させており、フェーズ2終了後から上市までの成功確率は国内メーカー第1位である(93ページ図3-1、表3-5)。
武田薬品工業が「大きく網を張って、タイミング良く絞り込む」ことができる背景には因果関係知識の蓄積と、意思決定システムの点で優れていることが挙げられ、かつ絞り込み戦略でも優れていることも重要である(94-100ページ)
劇的な新薬を開発する現場について、経営学の観点から読み解くことが出来たことは大変興味深かった。
佐藤健太郎 『医薬品クライシス』 ― 2017/05/07
佐藤健太郎 『医薬品クライシス』(新潮新書、2010年)
著者は元・医薬品メーカーの研究職。必ず副作用が発生してしまう、人によって効き目が違うなど医薬品の限界の限界を、医薬品研究の専門家だからこそ実感している(第三章 全ての医薬品は欠陥品である)。
本書で興味深かったのは、新薬開発の巨大リスク対策として進んだ製薬企業の大合併のあとに、各社ともすぐれた新薬が市場に送りだせていない問題だ。企業規模がそこまで大きくないうちは野球で言う「ヒット」をめざす新薬開発で良かったものの、企業規模が巨大になると「ホームラン」指向の新薬開発にならざるをえない。巨額の投資をしても臨床試験での成果がなかったり医薬当局の認可が下りなかったりすれば、大損害である。
新薬メーカー各社ともに特許が切れてしまうと、同じ成分を持つジェネリック医薬品が出てきて、特に米国では劇的に「新薬」の売上が落ちてしまう。このため、特許が切れる前に次の新薬を世に送り出さねば、と躍起になっている。本書が発行された2010年の前後には、売上が巨額だが特許切れになる医薬品がいくつもあり、各社ともに切羽つまっている。
本書でこの例として述べられていたのが、米国にある世界最大手のファイザーである。ファイザーは、高脂血症治療薬リピトールを開発したワーナー・ランバートを敵対的買収によって取得(その後もファルマシア、ワイスを買収しますます「メガファーマ」として規模拡大)。2007年にはファイザーの全売り上げの約3分の1となる約4兆5000億円もリピトールが生み出していたが、この特許が2011年に満了してしまう。
このリピトールの特許切れを迎える前に次の「ブロックバスター」(巨額売り上げの医薬品)を目指し、善玉コレステロールを増やし悪玉コレステロールを減らす新薬をねらって「トルセトラピプ」の開発・臨床試験に8億ドルもの巨額を投資。血管にコレステロールの沈着を防ぎ、心血管障害を抑えるはずのこの物質が、逆に心臓発作の発生を増やしてしまうことが明らかになり、2006年に開発の断念に至った。この開発中止から1か月とたたずにファイザーは従業員1万人の人員削減を発表。日本法人でも1200人が失職した。著者は言う。「トルセトラピプの失敗は、単にひとつの化合物がドロップしたというだけでなく、医薬品のひとつの時代の終わりを告げる出来事であったようにも思えた。」
かつて「ゲノム創薬」がもてはやされた時代もあったが、今となってはゲノム解読は進んでも「ゲノムが全てではない」という考え方を生命科学界に示すようになった。DNAの塩基配列が分かれば病気のかかりやすさが分かるという単純なことではないというのだ。「テーラーメイド創薬」は遠のいた観がある。
「抗体医薬」という新たなジャンルの医薬品も登場した。それまでの医薬品は、目指す消化器官で消化されて血管に入り、かつ肝臓で「解毒」されないようにして血管から患部に届き、細胞内に入るよう「小粒」なつくりのものばかりだった。1つのたんぱく質をバスケットボールだとすると医薬品はピンポン玉の大きさになる。これに対して、たんぱく質そのものを医薬品として患者の血管に点滴で入れて、白血病やリウマチのように細胞の外に病因たんぱく質がある場合にこれをターゲットとするのが「抗体医薬品」である。バイオベンチャー・セントコア社が開発したリウマチ治療薬「レミケード」は目に見える副作用なく劇的な効果をもたらし、リウマチ患者が数週間で階段を駆け降りられるようにまで改善。年間売り上げが50億ドルに上る。
しかし、この抗体医薬が効くのは一部のガンやリウマチ、感染症などに限られる。細胞や中枢系には入っていけないため、これまでの低分子医薬品にとって代わるということにはならない。
21世紀に入って新薬の認可が格段に減り、創薬を行う医薬品メーカーは危機感をもっている。病気に苦しむ多くの患者にとっても、画期的な新薬が待ち遠しい。
著者は「創薬力は落ちていない」と述べる(151ページ)。20年前、30年前とは比べものにならないほど創薬技術が進歩したのに新薬が上市されない理由としていくつもの複合的な原因があるという(第5章 迫りくる2010年問題)。
(1)作用機序のはっきりした「分かりやすい」疾患にはすでに完成度の高い医薬品が出ているため新薬が出にくい。新薬の開発領域として残っているのはガンをはじめ難病ばかりになっている。
(2)モデル動物の不備。例えばアルツハイマー症など中枢神経系の病気のモデル動物とは何なのか、研究者の多くがモデル動物の問題を指摘する。
(3)コンビケム、SBDDなど創薬新技術の限界。コンビケムとはコンビナトリアル・ケミストリーの略で、例えばA-B-Cと3つのパーツからなる化学物質について、それぞれのパーツにそれぞれ20種類のバージョンを用意し、20×20×20で8000種類の化合物を創り出せる技術のことをいう。その化合物がターゲットのタンパク質を阻害する能力があるかをふるい分ける「スクリーニング」のスピードが格段に速まる(144ページ)。しかし、コンビケムでは多種類のパーツを同時に結合させなければならないため、複雑な反応は使えず、例えるならレゴブロックで組み立てるようなものになる(156ページ)。普通の化合では粘土のように自由に創造できるので、コンビケムに限界があるのだ。
またSBDDとはストラクチャー・ベースド・ドラッグ・デザインのこと。ターゲットタンパク質を結晶化させ強力なX線を照射して分析すると、タンパク質の構造を原子一つ一つの位置まで正確に分析できる技術である。構造データが分かれば、病因たんぱく質にうまくあてはまる分子をデザインできるということだったが(145ページ)、タンパク質は柔軟でダイナミックに変化しているため結晶分析の通りの構造とは限らず、複雑なタンパク質の運動のシミュレーションは現在の技術ではムリなのだ。
(4)厳格化する安全基準。米国メルク社が鎮痛薬として販売した「バイオックス」(日本では発売されていない)は年商25億ドルを超える売り上げを誇ったが、心筋梗塞など心疾患の副作用があることが判明し、メルク社が不都合なデータを開示していなかったことから、米国食品医薬局の審査が厳格になった。これを受けて危険な化合物は創薬段階からふるい落とす技術が進んでいる。しかしこのふるい落としのために、将来医薬品として実用に至る可能性があるものも排除しているおそれがある。
(5)企業の大型化と合併による保守化。そもそも創薬の99.9%以上が失敗に終わるが、コスト優先発想の上司が研究部門のトップにつけば「実現可能か怪しいものは早目にストップさせよう」となってしまう。新薬の芽をつぶしているかもしれないが、それは誰にも分からない(アリセプトなど新薬のいくつかは開発中止を宣告されても研究者の執念で上市にいたっている)。
(6)発想の芽を摘む成果主義。製薬企業の研究部門では半年単位で研究テーマの評価がなされるようになったため、帳尻合わせのために駆け込みでレポートを出すようになってしまった。化合物だけはたくさん生まれても、新薬開発に至っていないのではないかと筆者は指摘する。短期的な成果で給与や昇進が決まってしまうので、与えられたミッション以外のことをしなくなるということがむしろ新薬開発のブレーキになっている可能性がある。(例えば、三共で開発された高脂血症薬「メバロチン」は開発断念後にも「闇実験」を通じて新薬にいたる途が開けた)
これらの筆者の指摘は現場からの発信だけに否定できないものなのだと考える。しばらくの間、新薬開発を行う製薬企業は次の創薬のスタイルを模索することになるのであろう。
本書の最後「おわりに」に書いてあることもとても気になった。ある研究者が「ガンなんて治しちゃってほんとにいいんだろうか」と問いかけた。私たちは誰 しもが死に至る存在なのに、ガン治療薬などを通じて100歳を超えて生きるのが当たり前になったとしたら、年金財政はますますもたなくなるし、認知症患者が増えるなどで介護にかかる家族の負担が一層重くなってしまう。「不老長寿」は人類の長年の夢だが、このように死を遠ざける社会は果たして本当に健全な社会なのだろうか?
高度な医療が進歩したために「スパゲッティー状態」で生きながらえる病人の「生活の質」の問題でもそうなのだが、私たちは単に「生きること」「長く生きること」に価値を置くのではなく「良く生きる」ことに価値を置く社会にしていかなければならないのだろうか? しかし、目の前で家族が病に苦しんでいるのを前にして、回復を祈らない人がいるだろうか。答えのない問いとして著者は読者に質問をなげかけるのだと思う。「医薬品がどこまでも進歩するとして、医療がどこまでも進歩するとして私たちは本当に幸せなのだろうか?」と。
著者は元・医薬品メーカーの研究職。必ず副作用が発生してしまう、人によって効き目が違うなど医薬品の限界の限界を、医薬品研究の専門家だからこそ実感している(第三章 全ての医薬品は欠陥品である)。
本書で興味深かったのは、新薬開発の巨大リスク対策として進んだ製薬企業の大合併のあとに、各社ともすぐれた新薬が市場に送りだせていない問題だ。企業規模がそこまで大きくないうちは野球で言う「ヒット」をめざす新薬開発で良かったものの、企業規模が巨大になると「ホームラン」指向の新薬開発にならざるをえない。巨額の投資をしても臨床試験での成果がなかったり医薬当局の認可が下りなかったりすれば、大損害である。
新薬メーカー各社ともに特許が切れてしまうと、同じ成分を持つジェネリック医薬品が出てきて、特に米国では劇的に「新薬」の売上が落ちてしまう。このため、特許が切れる前に次の新薬を世に送り出さねば、と躍起になっている。本書が発行された2010年の前後には、売上が巨額だが特許切れになる医薬品がいくつもあり、各社ともに切羽つまっている。
本書でこの例として述べられていたのが、米国にある世界最大手のファイザーである。ファイザーは、高脂血症治療薬リピトールを開発したワーナー・ランバートを敵対的買収によって取得(その後もファルマシア、ワイスを買収しますます「メガファーマ」として規模拡大)。2007年にはファイザーの全売り上げの約3分の1となる約4兆5000億円もリピトールが生み出していたが、この特許が2011年に満了してしまう。
このリピトールの特許切れを迎える前に次の「ブロックバスター」(巨額売り上げの医薬品)を目指し、善玉コレステロールを増やし悪玉コレステロールを減らす新薬をねらって「トルセトラピプ」の開発・臨床試験に8億ドルもの巨額を投資。血管にコレステロールの沈着を防ぎ、心血管障害を抑えるはずのこの物質が、逆に心臓発作の発生を増やしてしまうことが明らかになり、2006年に開発の断念に至った。この開発中止から1か月とたたずにファイザーは従業員1万人の人員削減を発表。日本法人でも1200人が失職した。著者は言う。「トルセトラピプの失敗は、単にひとつの化合物がドロップしたというだけでなく、医薬品のひとつの時代の終わりを告げる出来事であったようにも思えた。」
かつて「ゲノム創薬」がもてはやされた時代もあったが、今となってはゲノム解読は進んでも「ゲノムが全てではない」という考え方を生命科学界に示すようになった。DNAの塩基配列が分かれば病気のかかりやすさが分かるという単純なことではないというのだ。「テーラーメイド創薬」は遠のいた観がある。
「抗体医薬」という新たなジャンルの医薬品も登場した。それまでの医薬品は、目指す消化器官で消化されて血管に入り、かつ肝臓で「解毒」されないようにして血管から患部に届き、細胞内に入るよう「小粒」なつくりのものばかりだった。1つのたんぱく質をバスケットボールだとすると医薬品はピンポン玉の大きさになる。これに対して、たんぱく質そのものを医薬品として患者の血管に点滴で入れて、白血病やリウマチのように細胞の外に病因たんぱく質がある場合にこれをターゲットとするのが「抗体医薬品」である。バイオベンチャー・セントコア社が開発したリウマチ治療薬「レミケード」は目に見える副作用なく劇的な効果をもたらし、リウマチ患者が数週間で階段を駆け降りられるようにまで改善。年間売り上げが50億ドルに上る。
しかし、この抗体医薬が効くのは一部のガンやリウマチ、感染症などに限られる。細胞や中枢系には入っていけないため、これまでの低分子医薬品にとって代わるということにはならない。
21世紀に入って新薬の認可が格段に減り、創薬を行う医薬品メーカーは危機感をもっている。病気に苦しむ多くの患者にとっても、画期的な新薬が待ち遠しい。
著者は「創薬力は落ちていない」と述べる(151ページ)。20年前、30年前とは比べものにならないほど創薬技術が進歩したのに新薬が上市されない理由としていくつもの複合的な原因があるという(第5章 迫りくる2010年問題)。
(1)作用機序のはっきりした「分かりやすい」疾患にはすでに完成度の高い医薬品が出ているため新薬が出にくい。新薬の開発領域として残っているのはガンをはじめ難病ばかりになっている。
(2)モデル動物の不備。例えばアルツハイマー症など中枢神経系の病気のモデル動物とは何なのか、研究者の多くがモデル動物の問題を指摘する。
(3)コンビケム、SBDDなど創薬新技術の限界。コンビケムとはコンビナトリアル・ケミストリーの略で、例えばA-B-Cと3つのパーツからなる化学物質について、それぞれのパーツにそれぞれ20種類のバージョンを用意し、20×20×20で8000種類の化合物を創り出せる技術のことをいう。その化合物がターゲットのタンパク質を阻害する能力があるかをふるい分ける「スクリーニング」のスピードが格段に速まる(144ページ)。しかし、コンビケムでは多種類のパーツを同時に結合させなければならないため、複雑な反応は使えず、例えるならレゴブロックで組み立てるようなものになる(156ページ)。普通の化合では粘土のように自由に創造できるので、コンビケムに限界があるのだ。
またSBDDとはストラクチャー・ベースド・ドラッグ・デザインのこと。ターゲットタンパク質を結晶化させ強力なX線を照射して分析すると、タンパク質の構造を原子一つ一つの位置まで正確に分析できる技術である。構造データが分かれば、病因たんぱく質にうまくあてはまる分子をデザインできるということだったが(145ページ)、タンパク質は柔軟でダイナミックに変化しているため結晶分析の通りの構造とは限らず、複雑なタンパク質の運動のシミュレーションは現在の技術ではムリなのだ。
(4)厳格化する安全基準。米国メルク社が鎮痛薬として販売した「バイオックス」(日本では発売されていない)は年商25億ドルを超える売り上げを誇ったが、心筋梗塞など心疾患の副作用があることが判明し、メルク社が不都合なデータを開示していなかったことから、米国食品医薬局の審査が厳格になった。これを受けて危険な化合物は創薬段階からふるい落とす技術が進んでいる。しかしこのふるい落としのために、将来医薬品として実用に至る可能性があるものも排除しているおそれがある。
(5)企業の大型化と合併による保守化。そもそも創薬の99.9%以上が失敗に終わるが、コスト優先発想の上司が研究部門のトップにつけば「実現可能か怪しいものは早目にストップさせよう」となってしまう。新薬の芽をつぶしているかもしれないが、それは誰にも分からない(アリセプトなど新薬のいくつかは開発中止を宣告されても研究者の執念で上市にいたっている)。
(6)発想の芽を摘む成果主義。製薬企業の研究部門では半年単位で研究テーマの評価がなされるようになったため、帳尻合わせのために駆け込みでレポートを出すようになってしまった。化合物だけはたくさん生まれても、新薬開発に至っていないのではないかと筆者は指摘する。短期的な成果で給与や昇進が決まってしまうので、与えられたミッション以外のことをしなくなるということがむしろ新薬開発のブレーキになっている可能性がある。(例えば、三共で開発された高脂血症薬「メバロチン」は開発断念後にも「闇実験」を通じて新薬にいたる途が開けた)
これらの筆者の指摘は現場からの発信だけに否定できないものなのだと考える。しばらくの間、新薬開発を行う製薬企業は次の創薬のスタイルを模索することになるのであろう。
本書の最後「おわりに」に書いてあることもとても気になった。ある研究者が「ガンなんて治しちゃってほんとにいいんだろうか」と問いかけた。私たちは誰 しもが死に至る存在なのに、ガン治療薬などを通じて100歳を超えて生きるのが当たり前になったとしたら、年金財政はますますもたなくなるし、認知症患者が増えるなどで介護にかかる家族の負担が一層重くなってしまう。「不老長寿」は人類の長年の夢だが、このように死を遠ざける社会は果たして本当に健全な社会なのだろうか?
高度な医療が進歩したために「スパゲッティー状態」で生きながらえる病人の「生活の質」の問題でもそうなのだが、私たちは単に「生きること」「長く生きること」に価値を置くのではなく「良く生きる」ことに価値を置く社会にしていかなければならないのだろうか? しかし、目の前で家族が病に苦しんでいるのを前にして、回復を祈らない人がいるだろうか。答えのない問いとして著者は読者に質問をなげかけるのだと思う。「医薬品がどこまでも進歩するとして、医療がどこまでも進歩するとして私たちは本当に幸せなのだろうか?」と。
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