斎藤環『ヤンキー化する日本』 ― 2014/08/13
斎藤環『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21、2014年)
2012年12月の衆議院総選挙で野田総理の民主党が敗れ、安倍・自民党が大勝した。
総選挙直後に朝日新聞に掲載された斎藤環の「自民党ヤンキー論」はとても興味深かった。知識人や「おたく」が比較的いた民主党政権から「ヤンキー」の多い自民党政権に移ったということが、「おたく」からヤンキーへの政権交代ということで実感を伴って理解できたのである。
安倍首相自身はいわゆるヤンキーではないが、「ヤンキー的気質」を持ち合わせている。著者の斎藤環氏は「ヤンキーはポエムが好きだ」(本書38ページ)として、文学的な「詩」ではなく「美辞麗句にして内容空疎」な「壮大きわまりない自分語り」である「ポエム」をヤンキーが好きだとしている。そのポエムの例として安倍首相の書いた「瑞穂の国の資本主義」から引用している。
ある地方都市で仕事していた際、暴走族出身の保守系の自治体議員がいるのを聞いたことがあった。いざ選挙になるとかつての仲間や子分たちが動員をかけて当選に必要な得票を得るのだという。暴走族は必ずしもヤンキーとは一致しないが、ヤンキー的な気質との共通点は多い。斎藤氏のこの本によれば、ヤンキーのエートスは「バッドセンスな装いや美学と、『気合い』や『絆』といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの”文化”を指す」(9ページ)。これはいわゆる「ヤンキー」にも暴走族にも共有されている。
先の選挙で大敗した民主党だが、何とか比例復活などで勝ち残った議員の何人かが「ヤンキー的気質」を持ち合わせており、選挙は「インテリ」では勝てず、「ヤンキー的」でないと勝てないのだなあと思う。
2012年12月の衆議院総選挙で野田総理の民主党が敗れ、安倍・自民党が大勝した。
総選挙直後に朝日新聞に掲載された斎藤環の「自民党ヤンキー論」はとても興味深かった。知識人や「おたく」が比較的いた民主党政権から「ヤンキー」の多い自民党政権に移ったということが、「おたく」からヤンキーへの政権交代ということで実感を伴って理解できたのである。
安倍首相自身はいわゆるヤンキーではないが、「ヤンキー的気質」を持ち合わせている。著者の斎藤環氏は「ヤンキーはポエムが好きだ」(本書38ページ)として、文学的な「詩」ではなく「美辞麗句にして内容空疎」な「壮大きわまりない自分語り」である「ポエム」をヤンキーが好きだとしている。そのポエムの例として安倍首相の書いた「瑞穂の国の資本主義」から引用している。
ある地方都市で仕事していた際、暴走族出身の保守系の自治体議員がいるのを聞いたことがあった。いざ選挙になるとかつての仲間や子分たちが動員をかけて当選に必要な得票を得るのだという。暴走族は必ずしもヤンキーとは一致しないが、ヤンキー的な気質との共通点は多い。斎藤氏のこの本によれば、ヤンキーのエートスは「バッドセンスな装いや美学と、『気合い』や『絆』といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの”文化”を指す」(9ページ)。これはいわゆる「ヤンキー」にも暴走族にも共有されている。
先の選挙で大敗した民主党だが、何とか比例復活などで勝ち残った議員の何人かが「ヤンキー的気質」を持ち合わせており、選挙は「インテリ」では勝てず、「ヤンキー的」でないと勝てないのだなあと思う。
松本修『全国アホバカ分布考』 ― 2013/10/14
松本修『全国アホバカ分布考』(新潮文庫、1993年)
北九州の言葉で「びびんこする」というのがあるのをこの前知った。
用例:
公園に出かけた若い男女のカップルの間での会話。
彼女「ねぇ、びびんこして」
彼「えっ、こんなところでするか?」
何やら想像をかきたてられる「びびんこ」であり、この用例であるが、肩車を意味するのだとか。(でも、普通デートで肩車するか? せいぜい「お姫さまだっこ」くらいだろう。)
さて、本書は探偵ナイトスクープという関西のテレビ番組の企画から生まれた本。「探偵ナイトスクープ」は視聴者からのちょっと面白い質問や要望に応えるという番組。いぜんたまたま見る機会があり、蜘蛛の巣を虫とり網としてトンボを捕まえたいという小学生の希望をかなえるべく、昆虫博士や蜘蛛博士とともに小学生と「探偵」が奔走する姿が流れていた(ミッションは無事成功)。
本書では「アホとバカの境界を調べて欲しい」という新婚サラリーマンからの依頼がきっかけである。大阪出身の彼と東京出身の妻が言い争う際に彼は「アホ」といい、妻は「バカ」と言いお互い大変傷つく(いかにもありそうな話だ)。そこで東京からどこまでが「バカ」で大阪からどこまでが「アホ」か調べて欲しいという依頼だ。
自分はもともと東の人間だが、関西に行ったときには「バカ」と言われると傷つくとよく言われた。これに対して関西人が他人に「アホ」というときは、相手を突き放すのではなくて一定の愛情を示している表現のようだ。東の人間からすると「アホ」といわれると「アホの坂田」とか明石家さんまの「アホちゃいまんねんパーでんねん」を思い出させるので、あまりいい気もちはしないのだが。
さて、著者はこの企画を担当したディレクターで、番組では北野誠探偵が担当。新幹線で東京と大阪の間を行き来して「アホ」と「バカ」の境界を探そうとするが、名古屋に行くと「タワケ」に出くわし、あわてふためく。北野探偵は岐阜や米原の間を行き来して「アホ」「タワケ」の境界が関ヶ原付近にあることを確認。しかし番組では上岡龍太郎局長から「見事です!立派です」のお褒めの言葉をもらうも「で、『バカ』『タワケ』の境界は?」との指摘を受け再度調査となった。
著者はとことん調査を続け、全国各地の自治体に「アホ」「バカ」に相当する言葉、その対義語などを調査する。すると、全国には「アホ」「バカ」に相当する言葉としてかなり多彩な言葉があることが明らかになった。
後半では、著者は「バカ」の語源について調べて書いている。「馬をさして鹿となす」というのが語源だという説もあるが、それでは「バロク」であって「バカ」ではない。著者によると、はるか平安時代に貴族やその子女たちに広く読まれていた白楽天(白居易)の漢文に語源があった。
馬(ば)さんの家はかつて繁栄をきわめおごり高ぶっていたが、ここ最近はその栄華の見る影もないという詩の中で、
「君見ずや馬家の宅は尚お猶お存し、宅門題 して奉誠園と作すを」
という部分がある。「バカ」はこの詩から生まれたというのが著者の説である。
とても興味深い話で、平安時代の日本人の教養の広さも感じさせてくれた。
これに限らず、様々な言葉の分布を調べることで柳田國男の唱えた「方言周圏論」を実証してみせるなど、興味深い指摘がいくつもあった。堅い内容にも関わらずユーモアと良いテンポで一気に読ませることに、著者の筆力を感じる。
北九州の言葉で「びびんこする」というのがあるのをこの前知った。
用例:
公園に出かけた若い男女のカップルの間での会話。
彼女「ねぇ、びびんこして」
彼「えっ、こんなところでするか?」
何やら想像をかきたてられる「びびんこ」であり、この用例であるが、肩車を意味するのだとか。(でも、普通デートで肩車するか? せいぜい「お姫さまだっこ」くらいだろう。)
さて、本書は探偵ナイトスクープという関西のテレビ番組の企画から生まれた本。「探偵ナイトスクープ」は視聴者からのちょっと面白い質問や要望に応えるという番組。いぜんたまたま見る機会があり、蜘蛛の巣を虫とり網としてトンボを捕まえたいという小学生の希望をかなえるべく、昆虫博士や蜘蛛博士とともに小学生と「探偵」が奔走する姿が流れていた(ミッションは無事成功)。
本書では「アホとバカの境界を調べて欲しい」という新婚サラリーマンからの依頼がきっかけである。大阪出身の彼と東京出身の妻が言い争う際に彼は「アホ」といい、妻は「バカ」と言いお互い大変傷つく(いかにもありそうな話だ)。そこで東京からどこまでが「バカ」で大阪からどこまでが「アホ」か調べて欲しいという依頼だ。
自分はもともと東の人間だが、関西に行ったときには「バカ」と言われると傷つくとよく言われた。これに対して関西人が他人に「アホ」というときは、相手を突き放すのではなくて一定の愛情を示している表現のようだ。東の人間からすると「アホ」といわれると「アホの坂田」とか明石家さんまの「アホちゃいまんねんパーでんねん」を思い出させるので、あまりいい気もちはしないのだが。
さて、著者はこの企画を担当したディレクターで、番組では北野誠探偵が担当。新幹線で東京と大阪の間を行き来して「アホ」と「バカ」の境界を探そうとするが、名古屋に行くと「タワケ」に出くわし、あわてふためく。北野探偵は岐阜や米原の間を行き来して「アホ」「タワケ」の境界が関ヶ原付近にあることを確認。しかし番組では上岡龍太郎局長から「見事です!立派です」のお褒めの言葉をもらうも「で、『バカ』『タワケ』の境界は?」との指摘を受け再度調査となった。
著者はとことん調査を続け、全国各地の自治体に「アホ」「バカ」に相当する言葉、その対義語などを調査する。すると、全国には「アホ」「バカ」に相当する言葉としてかなり多彩な言葉があることが明らかになった。
後半では、著者は「バカ」の語源について調べて書いている。「馬をさして鹿となす」というのが語源だという説もあるが、それでは「バロク」であって「バカ」ではない。著者によると、はるか平安時代に貴族やその子女たちに広く読まれていた白楽天(白居易)の漢文に語源があった。
馬(ば)さんの家はかつて繁栄をきわめおごり高ぶっていたが、ここ最近はその栄華の見る影もないという詩の中で、
「君見ずや馬家の宅は尚お猶お存し、宅門題 して奉誠園と作すを」
という部分がある。「バカ」はこの詩から生まれたというのが著者の説である。
とても興味深い話で、平安時代の日本人の教養の広さも感じさせてくれた。
これに限らず、様々な言葉の分布を調べることで柳田國男の唱えた「方言周圏論」を実証してみせるなど、興味深い指摘がいくつもあった。堅い内容にも関わらずユーモアと良いテンポで一気に読ませることに、著者の筆力を感じる。
ヘーゲル『歴史哲学講義』 ― 2013/01/27
G.W.F.ヘーゲル著、長谷川宏訳『歴史哲学講義』(岩波文庫、1994年)
歴史の見方には大きく分けて二つある。ひとつが過去から未来に向けて直線的に続いているという見方。もう一つが同じところでぐるぐる回って繰り返しているという見方である。ヘーゲルの歴史観は前者である。自由と理性が支配する(ヨーロッパの)「近代」に向けて、歴史が直線的に発展してきたという見方である。
「世界史が理性的に進むこと、世界史が時代精神の理性的かつ必然的なあゆみであることは、世界史を考察することによってはじめてあきらかになることであって、どの領域にあっても同一の本性を保持する精神が、にもかかわらず、世界という現実の場でその本性の一面を展開してみせたのが世界史です。」(上巻 26ページ)
そしてヘーゲルは歴史の個々の出来事や人物に着目するのではなく、歴史の精神に着目する。
「世界史の本体は精神であり、精神の発展過程です。」(上巻 36ページ)
「精神は自由だ、という抽象的定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ、ということができる。」(上巻 39ページ)
ヘーゲルは、歴史を動かす精神を世界精神と名付け、本書でその進展を述べている。ヘーゲルは、歴史の偉人をこの世界精神を現実化し実現した者と定義する(上巻 58ページ)。そして歴史のはじまりを、理性が現実に存在し、世界精神が認められるところとしている(上巻 106ページ)。
したがって、単に神話や伝承の中にしかない時代は、精神や理性の存在する歴史の中にあるとはいえず、国家が形成され、法律が意識されてはじめて歴史が始まったとみなしている(上巻 110ページ)。特にヘーゲルは、国家を精神的な理念が具現化されたものと考える(上巻 85ページ)。
このようなヘーゲルの歴史の見方が大変興味深かった。それぞれの時代に時代精神があり、これが世界史を動かしているという考えは、ヘーゲルの卓越した考え方である。私たちのすむ現代の日本にも時代精神があり、これが政治・法律・宗教・芸術などに反映されているのだ、と思うと興味深い。たとえば、20世紀後半の歌謡曲の和音と21世紀前半の歌謡曲の和音はずいぶん異なっているが、これも時代精神の現れといえるだろう。
個々の歴史についてヘーゲルが触れた部分の中では、ヨーロッパ中世から近代の部分が興味深かった。例えば、中世のカトリック教会での教えが聖なるものを精神ではなく聖パンなどの物を通して信徒に伝えるものだったため、聖職者と平信徒とのかい離や偶像崇拝をもたらし、信徒が神を認識し、神に近づくことを遠ざけてしまった。ヘーゲルは精神が自分のもとにあって安定していることを自由と定義している(上巻 38ページ)が、中世のカトリック世界では信徒は教会と聖職者に従属し、行動規範や考え方が外から押しつけられる状態にあり、自由な精神が認められないことになる(下巻258-261ページ)。祈りを通じて神やキリストを信徒が自ら認識し、自由な精神が認められるはずのところに、中世ヨーロッパではそれとは反対の不自由な状態があることを批判している。この辺りの考え方はマックス・ウェーバーにも通じる考え方だと思った。
なお、訳文は平易で読みやすい。翻訳者の長谷川宏氏の努力に敬意を表したい。
歴史の見方には大きく分けて二つある。ひとつが過去から未来に向けて直線的に続いているという見方。もう一つが同じところでぐるぐる回って繰り返しているという見方である。ヘーゲルの歴史観は前者である。自由と理性が支配する(ヨーロッパの)「近代」に向けて、歴史が直線的に発展してきたという見方である。
「世界史が理性的に進むこと、世界史が時代精神の理性的かつ必然的なあゆみであることは、世界史を考察することによってはじめてあきらかになることであって、どの領域にあっても同一の本性を保持する精神が、にもかかわらず、世界という現実の場でその本性の一面を展開してみせたのが世界史です。」(上巻 26ページ)
そしてヘーゲルは歴史の個々の出来事や人物に着目するのではなく、歴史の精神に着目する。
「世界史の本体は精神であり、精神の発展過程です。」(上巻 36ページ)
「精神は自由だ、という抽象的定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ、ということができる。」(上巻 39ページ)
ヘーゲルは、歴史を動かす精神を世界精神と名付け、本書でその進展を述べている。ヘーゲルは、歴史の偉人をこの世界精神を現実化し実現した者と定義する(上巻 58ページ)。そして歴史のはじまりを、理性が現実に存在し、世界精神が認められるところとしている(上巻 106ページ)。
したがって、単に神話や伝承の中にしかない時代は、精神や理性の存在する歴史の中にあるとはいえず、国家が形成され、法律が意識されてはじめて歴史が始まったとみなしている(上巻 110ページ)。特にヘーゲルは、国家を精神的な理念が具現化されたものと考える(上巻 85ページ)。
このようなヘーゲルの歴史の見方が大変興味深かった。それぞれの時代に時代精神があり、これが世界史を動かしているという考えは、ヘーゲルの卓越した考え方である。私たちのすむ現代の日本にも時代精神があり、これが政治・法律・宗教・芸術などに反映されているのだ、と思うと興味深い。たとえば、20世紀後半の歌謡曲の和音と21世紀前半の歌謡曲の和音はずいぶん異なっているが、これも時代精神の現れといえるだろう。
個々の歴史についてヘーゲルが触れた部分の中では、ヨーロッパ中世から近代の部分が興味深かった。例えば、中世のカトリック教会での教えが聖なるものを精神ではなく聖パンなどの物を通して信徒に伝えるものだったため、聖職者と平信徒とのかい離や偶像崇拝をもたらし、信徒が神を認識し、神に近づくことを遠ざけてしまった。ヘーゲルは精神が自分のもとにあって安定していることを自由と定義している(上巻 38ページ)が、中世のカトリック世界では信徒は教会と聖職者に従属し、行動規範や考え方が外から押しつけられる状態にあり、自由な精神が認められないことになる(下巻258-261ページ)。祈りを通じて神やキリストを信徒が自ら認識し、自由な精神が認められるはずのところに、中世ヨーロッパではそれとは反対の不自由な状態があることを批判している。この辺りの考え方はマックス・ウェーバーにも通じる考え方だと思った。
なお、訳文は平易で読みやすい。翻訳者の長谷川宏氏の努力に敬意を表したい。
『陽だまりの彼女』 ― 2013/01/10
越谷オサム『陽だまりの彼女』(新潮文庫、2011年)
書評を見て買った本。
中学校で仲良かった異性に、10年ほどしてたまたま再会した時、かつてとは段違いに魅力的になっていて、今でも自分に想いをよせていてくれていたら…という夢のようなお話。広告代理店に勤める奥田浩介は取引先との打ち合わせで偶然、鎌ヶ谷西中で同級だった渡来真緒(わたらい・まお)に出会う。中学でいじめにあう真緒を助けて以来、学校の出来の悪い真緒に勉強を教える浩介だったが中3で突然転校したきりお互い連絡を取り合わなかった。
特に数学がまるでできなかった真緒が、今では浩介の作った資料の数字のミスの原因まで指摘してみせる。真緒からは幼さもなくなり、シンプルなリングを右手にはめるくらい大人になっていた。
一気に親しくなる二人だが、少しずつ真緒の不思議な過去が明らかになる。真緒には実の親がいない。幼いある日に衣服を全く着ていない裸の姿で発見され、保護されて里親に引き取られた真緒だった。
明らかに具合が悪くなる真緒なのだが医者の検査では何も異常なし。二人の幸せな暮らしの裏に忍び寄る不安…。
最後のどんでん返しには唖然とさせられた。単なるラブストーリーかと思っていたら完全な間違い。でも、真緒の一途さが心に響く。「女子が男子に読ませたい恋愛小説ナンバーワン」というのもうなずける。
書評を見て買った本。
中学校で仲良かった異性に、10年ほどしてたまたま再会した時、かつてとは段違いに魅力的になっていて、今でも自分に想いをよせていてくれていたら…という夢のようなお話。広告代理店に勤める奥田浩介は取引先との打ち合わせで偶然、鎌ヶ谷西中で同級だった渡来真緒(わたらい・まお)に出会う。中学でいじめにあう真緒を助けて以来、学校の出来の悪い真緒に勉強を教える浩介だったが中3で突然転校したきりお互い連絡を取り合わなかった。
特に数学がまるでできなかった真緒が、今では浩介の作った資料の数字のミスの原因まで指摘してみせる。真緒からは幼さもなくなり、シンプルなリングを右手にはめるくらい大人になっていた。
一気に親しくなる二人だが、少しずつ真緒の不思議な過去が明らかになる。真緒には実の親がいない。幼いある日に衣服を全く着ていない裸の姿で発見され、保護されて里親に引き取られた真緒だった。
明らかに具合が悪くなる真緒なのだが医者の検査では何も異常なし。二人の幸せな暮らしの裏に忍び寄る不安…。
最後のどんでん返しには唖然とさせられた。単なるラブストーリーかと思っていたら完全な間違い。でも、真緒の一途さが心に響く。「女子が男子に読ませたい恋愛小説ナンバーワン」というのもうなずける。
ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』 ― 2012/09/24
ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(インターブレイン、2009年)
よく寄るコンビニに平積みされ宣伝されていたのでこのマンガが気にはなっていた。たまたま夜のNHK番組に筆者のヤマザキマリ女史が出演し、イタリアに留学したいきさつなどを聞いたので興味を持ち、マンガだが買うに至った。ヤマザキ氏は中学生か高校生のときに一人でヨーロッパを旅することになり、たまたま列車の座席で一緒になったイタリア人から「イタリアを旅しないでヨーロッパを旅したことにはならない」という話を聞き、こんどは必ずイタリアに行くと約束することになり、それが縁でイタリアに留学することとなったという。
さて『テルマエ・ロマエ』のあらすじは、ローマの風呂設計技師ルシウスが、新しい公衆浴場の設計に悩んでいるところ、風呂に沈んだ際に現代の日本にタイムスリップというストーリー。しかも毎回日本の銭湯や温泉に出現。日本の銭湯や温泉の様々な趣向に感心し、これをローマに持ち帰って成功するというストーリーである。私たちから見れば当たり前と思う完全な円形の桶や、ラムネのビンの仕組み、銭湯のフルーツ牛乳などなど古代ローマ人のルシウスから見たら大変すばらしいものばかりなのである。
私たちがふだん当たり前と思っていることでも、違う視点から見れば大変すばらしかったり、工夫がこらしてあったり、あるいは独特な美意識で彩られたりしていることを指摘してくれて興味深い。現代人、特に日本人は、心地よいことを貪欲なまでに追求しているのだなあと思わされた(ウォシュレットやお風呂にテレビを持ち込むことなど)。何よりも日本の温泉・銭湯文化とローマ文化への著者の深い愛着が感じられて素晴らしい。
マンガを読んで面白かったので、映画も観に行った。阿部寛の演技はなかなか良かったが、原作にはない上戸彩の存在が原作の良さを損ねているように思った。原作では4巻までヒロインが現れず、それはそれでとても良かったのだが、一般受けするように映画版では冒頭からヒロイン上戸彩がマンガ家の卵として登場させている。原作4巻で現れるヒロイン小達(おだて)さつきは古代ローマ帝国にあこがれる歴史学者にて一流の温泉芸者という設定。美貌と知識とすぐれた芸事の技とを兼ね備えていて、映画の上戸彩とは雰囲気がずいぶんと違う。また、映画ではルシウスが皇帝に背く場面があるのだが、原作のルシウスからは考えられないことであるし、当時のローマでは皇帝に背いたら即殺されても文句は言えないのではないかと思った。でも、ローマの風景や公衆浴場のシーンはよく出来ていて感心。ローマ人の役で出演していた市村正親の演技も良かった。
よく寄るコンビニに平積みされ宣伝されていたのでこのマンガが気にはなっていた。たまたま夜のNHK番組に筆者のヤマザキマリ女史が出演し、イタリアに留学したいきさつなどを聞いたので興味を持ち、マンガだが買うに至った。ヤマザキ氏は中学生か高校生のときに一人でヨーロッパを旅することになり、たまたま列車の座席で一緒になったイタリア人から「イタリアを旅しないでヨーロッパを旅したことにはならない」という話を聞き、こんどは必ずイタリアに行くと約束することになり、それが縁でイタリアに留学することとなったという。
さて『テルマエ・ロマエ』のあらすじは、ローマの風呂設計技師ルシウスが、新しい公衆浴場の設計に悩んでいるところ、風呂に沈んだ際に現代の日本にタイムスリップというストーリー。しかも毎回日本の銭湯や温泉に出現。日本の銭湯や温泉の様々な趣向に感心し、これをローマに持ち帰って成功するというストーリーである。私たちから見れば当たり前と思う完全な円形の桶や、ラムネのビンの仕組み、銭湯のフルーツ牛乳などなど古代ローマ人のルシウスから見たら大変すばらしいものばかりなのである。
私たちがふだん当たり前と思っていることでも、違う視点から見れば大変すばらしかったり、工夫がこらしてあったり、あるいは独特な美意識で彩られたりしていることを指摘してくれて興味深い。現代人、特に日本人は、心地よいことを貪欲なまでに追求しているのだなあと思わされた(ウォシュレットやお風呂にテレビを持ち込むことなど)。何よりも日本の温泉・銭湯文化とローマ文化への著者の深い愛着が感じられて素晴らしい。
マンガを読んで面白かったので、映画も観に行った。阿部寛の演技はなかなか良かったが、原作にはない上戸彩の存在が原作の良さを損ねているように思った。原作では4巻までヒロインが現れず、それはそれでとても良かったのだが、一般受けするように映画版では冒頭からヒロイン上戸彩がマンガ家の卵として登場させている。原作4巻で現れるヒロイン小達(おだて)さつきは古代ローマ帝国にあこがれる歴史学者にて一流の温泉芸者という設定。美貌と知識とすぐれた芸事の技とを兼ね備えていて、映画の上戸彩とは雰囲気がずいぶんと違う。また、映画ではルシウスが皇帝に背く場面があるのだが、原作のルシウスからは考えられないことであるし、当時のローマでは皇帝に背いたら即殺されても文句は言えないのではないかと思った。でも、ローマの風景や公衆浴場のシーンはよく出来ていて感心。ローマ人の役で出演していた市村正親の演技も良かった。
ガロア-天才数学者の生涯- ― 2012/07/11
加藤文元『ガロア―天才数学者の生涯―』(中公新書、2010年)
多くの場合、数学の研究者は、世事から遠く離れて学問の世界に没頭するものだと思う。人間社会とは大きく異なり、極端に抽象化された世界にひたりこんで考えるのが数学だからだ。人間社会で何が起ころうと絶対的な真理が数学の世界にあるのだ。
ところが19世紀フランスの数学者ガロアはまったく異なる。共和派と王党派が争い続ける19世紀のフランスにあって、学生のうちから「人民の友社」という共和派の運動に関わり、それが原因で校長から放校処分を受けてしまう。放校処分の直後には「国家防衛砲兵隊」という共和派の結社に身を投じる。逮捕され、監獄暮らしを余儀なくされる。決闘をして20歳で亡くなるという急転直下の人生だった。
若くして亡くなるガロアだが、この短い生涯の間に近代数学史上最大ともいえる業績を残している。彼が考えた理論はのちに「ガロア理論」とされる。これは「数学的対象の難しさを、それに付随した対称性全体から成るシステムの構造によって記述する学問である」(245ページ)。
ガロアのいう「難しさ」「曖昧さ」と対称性について著者は方程式の根(解)を例にして説明している。
「1次方程式の根は1つしかない。それは簡単であると同時に1つに決まるという意味で曖昧さがない。しかし二次方程式の根は2つ同時に現れる。これらをαとβを用いて表すことが多いが、どちらがαでどちらがβなのかは決められないし、その区別は重要でもない。その意味で二者択一の曖昧さがある。そしてその曖昧さを統制するのが対称性、つまりαとβを入れ替えるという対称性である。」(248ページ)
二次方程式x2(xの二乗)+ax+b=0の解の公式はx=(-a±Q)/2 (ただしQはa2(aの二乗)-4bの平方根)。この公式に2つの解の対称性が現れている。すなわち+Qと-Qの対称性である。しかもこの方程式の解をαとβとしたとき、いわゆる判別式の平方根Qはαとβの差となる。「判別式の平方根を根の差で表すと、そこに見えてくるのは二つの根の入れ替えによって、その符合が替わる、つまり+(プラス)と-(マイナス)が入れ替わるという特徴的な性質である」(85ページ)。
このように「難しさ」「曖昧さ」が対称性のシステムで制御されているという考え方は、代数方程式だけでに適用されるのではなく、関数の難しさや空間の難しさにも適用される。この曖昧さを制御するのが「群」という対称性のシステムである。(249ページ)。ガロアのこの考え方は、計算だけによるのではなく概念をも対称とした「高位の数学」を予言したものであり、西洋数学の19世紀革命を予言したものであった。(246~247ページ)
現代数学の理論について全く知らない私にも、ガロアの「素晴らしさ」が丁寧に説明されており、とても興味深かった。難しいことを分かりやすく書こうとする著者の苦労には脱帽の思いだ。
多くの場合、数学の研究者は、世事から遠く離れて学問の世界に没頭するものだと思う。人間社会とは大きく異なり、極端に抽象化された世界にひたりこんで考えるのが数学だからだ。人間社会で何が起ころうと絶対的な真理が数学の世界にあるのだ。
ところが19世紀フランスの数学者ガロアはまったく異なる。共和派と王党派が争い続ける19世紀のフランスにあって、学生のうちから「人民の友社」という共和派の運動に関わり、それが原因で校長から放校処分を受けてしまう。放校処分の直後には「国家防衛砲兵隊」という共和派の結社に身を投じる。逮捕され、監獄暮らしを余儀なくされる。決闘をして20歳で亡くなるという急転直下の人生だった。
若くして亡くなるガロアだが、この短い生涯の間に近代数学史上最大ともいえる業績を残している。彼が考えた理論はのちに「ガロア理論」とされる。これは「数学的対象の難しさを、それに付随した対称性全体から成るシステムの構造によって記述する学問である」(245ページ)。
ガロアのいう「難しさ」「曖昧さ」と対称性について著者は方程式の根(解)を例にして説明している。
「1次方程式の根は1つしかない。それは簡単であると同時に1つに決まるという意味で曖昧さがない。しかし二次方程式の根は2つ同時に現れる。これらをαとβを用いて表すことが多いが、どちらがαでどちらがβなのかは決められないし、その区別は重要でもない。その意味で二者択一の曖昧さがある。そしてその曖昧さを統制するのが対称性、つまりαとβを入れ替えるという対称性である。」(248ページ)
二次方程式x2(xの二乗)+ax+b=0の解の公式はx=(-a±Q)/2 (ただしQはa2(aの二乗)-4bの平方根)。この公式に2つの解の対称性が現れている。すなわち+Qと-Qの対称性である。しかもこの方程式の解をαとβとしたとき、いわゆる判別式の平方根Qはαとβの差となる。「判別式の平方根を根の差で表すと、そこに見えてくるのは二つの根の入れ替えによって、その符合が替わる、つまり+(プラス)と-(マイナス)が入れ替わるという特徴的な性質である」(85ページ)。
このように「難しさ」「曖昧さ」が対称性のシステムで制御されているという考え方は、代数方程式だけでに適用されるのではなく、関数の難しさや空間の難しさにも適用される。この曖昧さを制御するのが「群」という対称性のシステムである。(249ページ)。ガロアのこの考え方は、計算だけによるのではなく概念をも対称とした「高位の数学」を予言したものであり、西洋数学の19世紀革命を予言したものであった。(246~247ページ)
現代数学の理論について全く知らない私にも、ガロアの「素晴らしさ」が丁寧に説明されており、とても興味深かった。難しいことを分かりやすく書こうとする著者の苦労には脱帽の思いだ。
西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』 ― 2012/03/12
西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(角川文庫、2011年)
以前ブログに書いた『日々是好日』の作者も週刊朝日に連載していたが、この西原理恵子も週刊朝日で「恨ミシュラン」という連載を書いていた。バブル経済真っ盛りの頃にミシュランにランキングされるような高級レストランに行って実際に食べてみる企画。大抵は言われているほどおいしくなかったり、サービスがよくなかったりしてその批評がおもしろかった。
さて本書は書評で見た。確か子供に読ませたい本のランキングで上位に来ていたと思う。でも自分が子供の時に読んでいたら良かった、と思った。
どん底の貧乏な世界では、暴力や犯罪、賭け事、アルコール中毒などがあたり前。著者の実体験をもとに書いているのでそのつらさ、しんどさ、みじめさが心に響く。
けれども、父親が自殺して家族が一番つらい時に、母が作者にぽんとなけなしの100万円を渡し「あんたは大学に行きなさい。」―本当に素晴らしいお母さんだ。
貧乏の連鎖、子供の時に受けたことを大人になって自分が繰り返してしまうことなどを考えさせられた。
以前ブログに書いた『日々是好日』の作者も週刊朝日に連載していたが、この西原理恵子も週刊朝日で「恨ミシュラン」という連載を書いていた。バブル経済真っ盛りの頃にミシュランにランキングされるような高級レストランに行って実際に食べてみる企画。大抵は言われているほどおいしくなかったり、サービスがよくなかったりしてその批評がおもしろかった。
さて本書は書評で見た。確か子供に読ませたい本のランキングで上位に来ていたと思う。でも自分が子供の時に読んでいたら良かった、と思った。
どん底の貧乏な世界では、暴力や犯罪、賭け事、アルコール中毒などがあたり前。著者の実体験をもとに書いているのでそのつらさ、しんどさ、みじめさが心に響く。
けれども、父親が自殺して家族が一番つらい時に、母が作者にぽんとなけなしの100万円を渡し「あんたは大学に行きなさい。」―本当に素晴らしいお母さんだ。
貧乏の連鎖、子供の時に受けたことを大人になって自分が繰り返してしまうことなどを考えさせられた。
森下典子『日日是好日』 ― 2011/09/11
森下典子『日日是好日―「お茶」がおしえてくれた15のしあわせ―』(新潮文庫、2008年)
久しぶりにブログを書く。
以前、お茶をいただく機会があり、とても貴重な経験をしたことはこのブログに書いたことがある。
たまたま手にしたこの本も、お茶の世界に関する本。お茶を長年お稽古している人の自伝。
著者がかつて週刊朝日に「典奴どすえ」というタイトルで記事を書いていたのを覚えている。その時のノリの良さとは違い、本書はとても静かで内面的な文章だ。誰だって、客観的につかめることを書く場合と、自分の内面を書く場合とでは文体が違ってくる。
「まえがき」には以下のように書かれている。
「世の中には『すぐにわかるもの』と、『すぐにはわからないもの』の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは(中略)何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、『別もの』にかわっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。」(5ページ)
著者も別のところで書いているが、お茶だけでなく人生もそういうことだと思う。すぐに分からないことがたくさんある。でも、その時にはその時に分かることしか分からない。大切なことは後になって「ああそういうことだったのか」と分かるものなのだ。
著者は「すぐにわからないもの」の話の後に、雨の日の体験を語る。
「それまでは、雨は『空から落ちてくる水』でしかなく、匂いなどなかった。」「(略)ある日突然、雨が生ぬるく匂いはじめた。『あ、夕立がくる』と、思った。」「(それまでは)私は、ガラスの瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆(おお)いがとれて、季節が『匂い』や『音』という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅(か)ぎわける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。」(6ページ)
人生の劇的な瞬間である。それまで数えきれないほどあった雨にはじめて「匂い」を感じた瞬間。雨にも色々な匂いがあること。その匂いが分かること。これこそ「生きている」と感じる瞬間である。
さて、本書のタイトル『日日是好日』は「にちにちこれこうじつ」と読む。「日々是決戦」(ひびこれけっせん)という標語に受験生のときに親しんだせいか「日日是好日」は「ひびこれこうじつ」と読みたくなったが、「毎日、どんな日でもよい日だ」という意味。第十三章「雨の日は、雨の音を聴くこと」で著者が「日日是好日」の意味にはっと気づく場面がある。
「雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分味わう。お茶とは、そういう『生き方』なのだ。そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが『苦境』と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。」「私たちは雨が降ると、『今日はお天気が悪いわ』などと言う。けれど、本当は『悪い天気』なんて存在しない。雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も『いい日』なのだ。」(217-218ページ)
いつもお稽古の場に掲げてある「日日是好日」の意味に、著者は長い時間をかけてようやく気付いたのである。このようなことが分かるということがまさに「生きている」ことなのだろう。
本書はとても味わい深い本だった。
それから、いま思えば、私がお茶をいただく機会を与えてもらったのも一つのご縁だと思う。このご縁をつくってくださった方々には、今でも感謝の思いでいっぱいだ。
久しぶりにブログを書く。
以前、お茶をいただく機会があり、とても貴重な経験をしたことはこのブログに書いたことがある。
たまたま手にしたこの本も、お茶の世界に関する本。お茶を長年お稽古している人の自伝。
著者がかつて週刊朝日に「典奴どすえ」というタイトルで記事を書いていたのを覚えている。その時のノリの良さとは違い、本書はとても静かで内面的な文章だ。誰だって、客観的につかめることを書く場合と、自分の内面を書く場合とでは文体が違ってくる。
「まえがき」には以下のように書かれている。
「世の中には『すぐにわかるもの』と、『すぐにはわからないもの』の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは(中略)何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、『別もの』にかわっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。」(5ページ)
著者も別のところで書いているが、お茶だけでなく人生もそういうことだと思う。すぐに分からないことがたくさんある。でも、その時にはその時に分かることしか分からない。大切なことは後になって「ああそういうことだったのか」と分かるものなのだ。
著者は「すぐにわからないもの」の話の後に、雨の日の体験を語る。
「それまでは、雨は『空から落ちてくる水』でしかなく、匂いなどなかった。」「(略)ある日突然、雨が生ぬるく匂いはじめた。『あ、夕立がくる』と、思った。」「(それまでは)私は、ガラスの瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆(おお)いがとれて、季節が『匂い』や『音』という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅(か)ぎわける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。」(6ページ)
人生の劇的な瞬間である。それまで数えきれないほどあった雨にはじめて「匂い」を感じた瞬間。雨にも色々な匂いがあること。その匂いが分かること。これこそ「生きている」と感じる瞬間である。
さて、本書のタイトル『日日是好日』は「にちにちこれこうじつ」と読む。「日々是決戦」(ひびこれけっせん)という標語に受験生のときに親しんだせいか「日日是好日」は「ひびこれこうじつ」と読みたくなったが、「毎日、どんな日でもよい日だ」という意味。第十三章「雨の日は、雨の音を聴くこと」で著者が「日日是好日」の意味にはっと気づく場面がある。
「雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分味わう。お茶とは、そういう『生き方』なのだ。そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが『苦境』と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。」「私たちは雨が降ると、『今日はお天気が悪いわ』などと言う。けれど、本当は『悪い天気』なんて存在しない。雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も『いい日』なのだ。」(217-218ページ)
いつもお稽古の場に掲げてある「日日是好日」の意味に、著者は長い時間をかけてようやく気付いたのである。このようなことが分かるということがまさに「生きている」ことなのだろう。
本書はとても味わい深い本だった。
それから、いま思えば、私がお茶をいただく機会を与えてもらったのも一つのご縁だと思う。このご縁をつくってくださった方々には、今でも感謝の思いでいっぱいだ。
アフターダーク ― 2011/02/19
村上春樹『アフターダーク』(講談社文庫、2006年)
浅井エリとマリの美人姉妹とその周辺の人たちの一晩の物語。感情を排した無機的な視点や、エリが入り込んでしまう異次元のような空間の表現が、夜の雰囲気と相まって、マリがまきこまれる生臭い現実の展開と対照的だ。
登場人物に共通するのは、何かに追われていること。大学生でモデルをしているエリは、何かをかかえて長い眠りに逃避している。妹のマリは、長い間眠り続ける姉に耐えられなくて、夜の街に一人逃げ出す。売春婦とラブホテルに入ったサラリーマンの「白川」も売春婦をかかえる中国人組織から追われている。そのラブホテルで働く女性「コオロギ」も何かの組織から逃げている。登場人物は誰も、何かから逃げているが、逃げ切れることはない。
誰だって何かに追われて逃げているのではないかと暗示されているように思った。しかし、本書ではラストで、安心できる場所に、安心できる人と一緒にいて心を通わせることで「追跡」から逃れられる可能性を示唆している。人と人とのつながりが、この無機的な都会の中で救いになるのかもしれない。
浅井エリとマリの美人姉妹とその周辺の人たちの一晩の物語。感情を排した無機的な視点や、エリが入り込んでしまう異次元のような空間の表現が、夜の雰囲気と相まって、マリがまきこまれる生臭い現実の展開と対照的だ。
登場人物に共通するのは、何かに追われていること。大学生でモデルをしているエリは、何かをかかえて長い眠りに逃避している。妹のマリは、長い間眠り続ける姉に耐えられなくて、夜の街に一人逃げ出す。売春婦とラブホテルに入ったサラリーマンの「白川」も売春婦をかかえる中国人組織から追われている。そのラブホテルで働く女性「コオロギ」も何かの組織から逃げている。登場人物は誰も、何かから逃げているが、逃げ切れることはない。
誰だって何かに追われて逃げているのではないかと暗示されているように思った。しかし、本書ではラストで、安心できる場所に、安心できる人と一緒にいて心を通わせることで「追跡」から逃れられる可能性を示唆している。人と人とのつながりが、この無機的な都会の中で救いになるのかもしれない。
デフレの正体 ― 2011/01/26
藻谷浩介『デフレの正体―経済は「人口の波」で動く』(角川oneテーマ21、2010年)
テレビで紹介されていたので購入。日銀がどんなに金融緩和策をとってもなかなか景気が良くならないわが国だが、どうしてそうなのかを分かりやすく説明する本。著者の結論は、生産年齢人口(消費人口)が毎年毎年減っており、この「人口の波」が「景気の波」を押しつぶすから、である。
著者は国内経済分析の際にGDPを見るのではなく、国内小売販売額や国内自動車販売額などの内需そのものを示す数字に着目する。「失われた10年」とはよく言われるが、バブル崩壊後の1990年代も国内小売販売額は伸びていた(86-88ページ)。1998年から2003年は確かに全国的な不況となったが2003年から2006年は輸出景気となった。著者は「都市と地方の格差」の議論に対して、地域間格差よりも、それぞれの時期に特有の原因の方が各地の経済に影響を与えていると論じている(第4講)。
高齢者の激増と生産年齢の急速な減少は、中国など他のアジア諸国でもいずれ経験せざるをえないこと。著者は、わが国が他国に先だって処方箋を用意することで世界に貢献できると述べている。たとえば高齢者や高所得者の気持ちをうまくつかむ商品・高級品の開発、世界の裕福な人の購買意欲を刺激する高級なまちづくり、裕福な高齢者から若年層への所得の移転、女性の雇用促進と経営参加など。
大変興味深い本で、読んで良かったと思う。
テレビで紹介されていたので購入。日銀がどんなに金融緩和策をとってもなかなか景気が良くならないわが国だが、どうしてそうなのかを分かりやすく説明する本。著者の結論は、生産年齢人口(消費人口)が毎年毎年減っており、この「人口の波」が「景気の波」を押しつぶすから、である。
著者は国内経済分析の際にGDPを見るのではなく、国内小売販売額や国内自動車販売額などの内需そのものを示す数字に着目する。「失われた10年」とはよく言われるが、バブル崩壊後の1990年代も国内小売販売額は伸びていた(86-88ページ)。1998年から2003年は確かに全国的な不況となったが2003年から2006年は輸出景気となった。著者は「都市と地方の格差」の議論に対して、地域間格差よりも、それぞれの時期に特有の原因の方が各地の経済に影響を与えていると論じている(第4講)。
高齢者の激増と生産年齢の急速な減少は、中国など他のアジア諸国でもいずれ経験せざるをえないこと。著者は、わが国が他国に先だって処方箋を用意することで世界に貢献できると述べている。たとえば高齢者や高所得者の気持ちをうまくつかむ商品・高級品の開発、世界の裕福な人の購買意欲を刺激する高級なまちづくり、裕福な高齢者から若年層への所得の移転、女性の雇用促進と経営参加など。
大変興味深い本で、読んで良かったと思う。
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