ハーメルンの笛吹き男 ― 2016/06/12

阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男(第1部・第2部)」『阿部謹也著作集①』(筑摩書房、1999年)

あなたは、グリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」を聞いたことがあるだろうか? 

1284年、ドイツのハーメルンという街に、様々な色の混じった上着を着た不思議な男が現れた。男は自ら「鼠捕り男」と称し、お金を払えばこの街の鼠を退治してみせると言う。市民たちはこの男と取引を結び、報酬を支払うと約束した。鼠捕り男が笛を取り出して吹き鳴らすと、鼠どもが走り出てきて男の周りに群がる。男は鼠を引き連れて街を出て、ヴェーゼル河で鼠をみな溺れさせた。
さて鼠の災難を逃れた後、市民たちは約束したことを後悔し、口実をつけて支払を拒絶。男は激しく怒ってハーメルンを去って行った。6月26日の「ヨハネとパウロの日」に鼠捕り男が再び現れた。男が笛を吹き鳴らすと、今度は4歳以上の少年少女が男のところに大勢集まった。子どもたちは男の後をついていき、山に着くとその男もろとも消え失せてしまった。

子どもたちの失踪が単なる「おとぎ話」ではなく実際にあった話だとすればどうだろうか? 阿部謹也氏のこの研究によれば、確かに1284年の6月26日に130人の子どもたちがハーメルンの街から出て行ったのである(複数の中世の文書から確認できる)。悲しみにくれた街の人たちは、この行方不明の日を起点にして年月を数えていたという。

1284年というと日本は鎌倉時代、元寇の頃。武士の支配が強まる日本の中世に対して、ヨーロッパの中世はキリスト教の聖職者と領主が支配する時代。交通の要衝であるハーメルンでは穀物が倉庫に蓄えられ、確かにそれを食い荒らす鼠の害はひどいものだった。

本書では、子どもたちが笛吹きによって連れ去られた話に、鼠捕り男が鼠をとった話が後から付け加えられたことが述べられている。ハーメルン市の参事会が笛吹き男に支払をしぶったから子どもたちが連れ去られたという理由づけも、一部の大商人たちが仕切る参事会に対する庶民の不満が投影されたものだと指摘する。

いつの時代も、権力者たちのわがままによって苦労をしたり被害を受けたりするのは庶民や子どもたちなど弱い者たちなのだという歴史的な経験を投影した物語になっている。

阿部謹也氏のこの研究が素晴らしいのは、この物語の背景を語ることを通じて、中世ヨーロッパのあり様を目の前で起こっている出来事かのように再現してくれたことだ。ハーメルン市参事会における大商人たちとツンフト(同業者組合)との軋轢、キリスト教会による支配(多くの年中行事(練り歩き)や税などの負担)とゲルマン民族が古来より持つ文化とのせめぎ合い、支配する領主と支配される庶民・下層民、そこから排除された「笛吹き」などの遍歴芸人や放浪学生、ユダヤ人など「部外者」への差別、子どもが成人になる前に食料不足や病気で亡くなることが多い食・衛生環境(ペストはもう少し後の時代だが飢饉が頻繁に起こっていた)、そして東ドイツへの植民など、学校の世界史で習った「三圃制」など農村中心のヨーロッパ中世の説明とは大きく違ったダイナミックな中世の姿が語られている。

欧米で何かあると民衆がデモ行進するのも、祭日のたびに練り歩きをした宗教的伝統と不可分ではないだろう。そしてハロウィンで子どもたちが仮装するのも、キリスト教以前からヨーロッパであった、お祭りのときに仮装したり大騒ぎしたりすること無関係ではないと思う。また、いまでも「6月の花嫁」(ジューン・ブライド)というように結婚式を6月に挙げる例が欧米で多いのも、キリスト教以前にあった夏至のお祭りという伝統につながっている。この日にはドイツなどゲルマン民族の多くの町や村で火が燃やされ、老若男女がみな集まって歌い踊り、男子が成人する日でもあり、結婚式がおこなわれる日でもあったのだ。(日本の神社でも6月の終わりに「茅の輪くぐり」を行うところもある)

夏至の日6月24日に「ヨハネ祭」があり、26日は「ヨハネとパウロの日」である。そして子どもたち130人はこの6月26日に確かに行方不明になったのである。

過去の出来事が、単なる過去の話ではなくて現在にもつながることだと思うと面白い。いつの世も人間は同じように笑い、騒ぎ、差別し、苦しみ、だまされるのである。科学技術は進歩しても、人間の中身はそう変わらないように思えてならない。

斎藤環『ヤンキー化する日本』 ― 2014/08/13

『ヤンキー化する日本』
斎藤環『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21、2014年)

2012年12月の衆議院総選挙で野田総理の民主党が敗れ、安倍・自民党が大勝した。

総選挙直後に朝日新聞に掲載された斎藤環の「自民党ヤンキー論」はとても興味深かった。知識人や「おたく」が比較的いた民主党政権から「ヤンキー」の多い自民党政権に移ったということが、「おたく」からヤンキーへの政権交代ということで実感を伴って理解できたのである。

安倍首相自身はいわゆるヤンキーではないが、「ヤンキー的気質」を持ち合わせている。著者の斎藤環氏は「ヤンキーはポエムが好きだ」(本書38ページ)として、文学的な「詩」ではなく「美辞麗句にして内容空疎」な「壮大きわまりない自分語り」である「ポエム」をヤンキーが好きだとしている。そのポエムの例として安倍首相の書いた「瑞穂の国の資本主義」から引用している。

ある地方都市で仕事していた際、暴走族出身の保守系の自治体議員がいるのを聞いたことがあった。いざ選挙になるとかつての仲間や子分たちが動員をかけて当選に必要な得票を得るのだという。暴走族は必ずしもヤンキーとは一致しないが、ヤンキー的な気質との共通点は多い。斎藤氏のこの本によれば、ヤンキーのエートスは「バッドセンスな装いや美学と、『気合い』や『絆』といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの”文化”を指す」(9ページ)。これはいわゆる「ヤンキー」にも暴走族にも共有されている。

先の選挙で大敗した民主党だが、何とか比例復活などで勝ち残った議員の何人かが「ヤンキー的気質」を持ち合わせており、選挙は「インテリ」では勝てず、「ヤンキー的」でないと勝てないのだなあと思う。

松本修『全国アホバカ分布考』 ― 2013/10/14

「全国アホバカ分布考」
松本修『全国アホバカ分布考』(新潮文庫、1993年)

北九州の言葉で「びびんこする」というのがあるのをこの前知った。

用例:
公園に出かけた若い男女のカップルの間での会話。

彼女「ねぇ、びびんこして」
彼「えっ、こんなところでするか?」

何やら想像をかきたてられる「びびんこ」であり、この用例であるが、肩車を意味するのだとか。(でも、普通デートで肩車するか? せいぜい「お姫さまだっこ」くらいだろう。)

さて、本書は探偵ナイトスクープという関西のテレビ番組の企画から生まれた本。「探偵ナイトスクープ」は視聴者からのちょっと面白い質問や要望に応えるという番組。いぜんたまたま見る機会があり、蜘蛛の巣を虫とり網としてトンボを捕まえたいという小学生の希望をかなえるべく、昆虫博士や蜘蛛博士とともに小学生と「探偵」が奔走する姿が流れていた(ミッションは無事成功)。

本書では「アホとバカの境界を調べて欲しい」という新婚サラリーマンからの依頼がきっかけである。大阪出身の彼と東京出身の妻が言い争う際に彼は「アホ」といい、妻は「バカ」と言いお互い大変傷つく(いかにもありそうな話だ)。そこで東京からどこまでが「バカ」で大阪からどこまでが「アホ」か調べて欲しいという依頼だ。

自分はもともと東の人間だが、関西に行ったときには「バカ」と言われると傷つくとよく言われた。これに対して関西人が他人に「アホ」というときは、相手を突き放すのではなくて一定の愛情を示している表現のようだ。東の人間からすると「アホ」といわれると「アホの坂田」とか明石家さんまの「アホちゃいまんねんパーでんねん」を思い出させるので、あまりいい気もちはしないのだが。

さて、著者はこの企画を担当したディレクターで、番組では北野誠探偵が担当。新幹線で東京と大阪の間を行き来して「アホ」と「バカ」の境界を探そうとするが、名古屋に行くと「タワケ」に出くわし、あわてふためく。北野探偵は岐阜や米原の間を行き来して「アホ」「タワケ」の境界が関ヶ原付近にあることを確認。しかし番組では上岡龍太郎局長から「見事です!立派です」のお褒めの言葉をもらうも「で、『バカ』『タワケ』の境界は?」との指摘を受け再度調査となった。

著者はとことん調査を続け、全国各地の自治体に「アホ」「バカ」に相当する言葉、その対義語などを調査する。すると、全国には「アホ」「バカ」に相当する言葉としてかなり多彩な言葉があることが明らかになった。

後半では、著者は「バカ」の語源について調べて書いている。「馬をさして鹿となす」というのが語源だという説もあるが、それでは「バロク」であって「バカ」ではない。著者によると、はるか平安時代に貴族やその子女たちに広く読まれていた白楽天(白居易)の漢文に語源があった。

馬(ば)さんの家はかつて繁栄をきわめおごり高ぶっていたが、ここ最近はその栄華の見る影もないという詩の中で、

「君見ずや馬家の宅は尚お猶お存し、宅門題 して奉誠園と作すを」

という部分がある。「バカ」はこの詩から生まれたというのが著者の説である。

とても興味深い話で、平安時代の日本人の教養の広さも感じさせてくれた。

これに限らず、様々な言葉の分布を調べることで柳田國男の唱えた「方言周圏論」を実証してみせるなど、興味深い指摘がいくつもあった。堅い内容にも関わらずユーモアと良いテンポで一気に読ませることに、著者の筆力を感じる。

ヘーゲル『歴史哲学講義』 ― 2013/01/27

ヘーゲル『歴史哲学講義』
G.W.F.ヘーゲル著、長谷川宏訳『歴史哲学講義』(岩波文庫、1994年)

歴史の見方には大きく分けて二つある。ひとつが過去から未来に向けて直線的に続いているという見方。もう一つが同じところでぐるぐる回って繰り返しているという見方である。ヘーゲルの歴史観は前者である。自由と理性が支配する(ヨーロッパの)「近代」に向けて、歴史が直線的に発展してきたという見方である。

「世界史が理性的に進むこと、世界史が時代精神の理性的かつ必然的なあゆみであることは、世界史を考察することによってはじめてあきらかになることであって、どの領域にあっても同一の本性を保持する精神が、にもかかわらず、世界という現実の場でその本性の一面を展開してみせたのが世界史です。」(上巻 26ページ)

そしてヘーゲルは歴史の個々の出来事や人物に着目するのではなく、歴史の精神に着目する。

「世界史の本体は精神であり、精神の発展過程です。」(上巻 36ページ)
「精神は自由だ、という抽象的定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ、ということができる。」(上巻 39ページ)

ヘーゲルは、歴史を動かす精神を世界精神と名付け、本書でその進展を述べている。ヘーゲルは、歴史の偉人をこの世界精神を現実化し実現した者と定義する(上巻 58ページ)。そして歴史のはじまりを、理性が現実に存在し、世界精神が認められるところとしている(上巻 106ページ)。

したがって、単に神話や伝承の中にしかない時代は、精神や理性の存在する歴史の中にあるとはいえず、国家が形成され、法律が意識されてはじめて歴史が始まったとみなしている(上巻 110ページ)。特にヘーゲルは、国家を精神的な理念が具現化されたものと考える(上巻 85ページ)。

このようなヘーゲルの歴史の見方が大変興味深かった。それぞれの時代に時代精神があり、これが世界史を動かしているという考えは、ヘーゲルの卓越した考え方である。私たちのすむ現代の日本にも時代精神があり、これが政治・法律・宗教・芸術などに反映されているのだ、と思うと興味深い。たとえば、20世紀後半の歌謡曲の和音と21世紀前半の歌謡曲の和音はずいぶん異なっているが、これも時代精神の現れといえるだろう。

個々の歴史についてヘーゲルが触れた部分の中では、ヨーロッパ中世から近代の部分が興味深かった。例えば、中世のカトリック教会での教えが聖なるものを精神ではなく聖パンなどの物を通して信徒に伝えるものだったため、聖職者と平信徒とのかい離や偶像崇拝をもたらし、信徒が神を認識し、神に近づくことを遠ざけてしまった。ヘーゲルは精神が自分のもとにあって安定していることを自由と定義している(上巻 38ページ)が、中世のカトリック世界では信徒は教会と聖職者に従属し、行動規範や考え方が外から押しつけられる状態にあり、自由な精神が認められないことになる(下巻258-261ページ)。祈りを通じて神やキリストを信徒が自ら認識し、自由な精神が認められるはずのところに、中世ヨーロッパではそれとは反対の不自由な状態があることを批判している。この辺りの考え方はマックス・ウェーバーにも通じる考え方だと思った。

なお、訳文は平易で読みやすい。翻訳者の長谷川宏氏の努力に敬意を表したい。

『陽だまりの彼女』 ― 2013/01/10

『陽だまりの彼女』
越谷オサム『陽だまりの彼女』(新潮文庫、2011年)

書評を見て買った本。

中学校で仲良かった異性に、10年ほどしてたまたま再会した時、かつてとは段違いに魅力的になっていて、今でも自分に想いをよせていてくれていたら…という夢のようなお話。広告代理店に勤める奥田浩介は取引先との打ち合わせで偶然、鎌ヶ谷西中で同級だった渡来真緒(わたらい・まお)に出会う。中学でいじめにあう真緒を助けて以来、学校の出来の悪い真緒に勉強を教える浩介だったが中3で突然転校したきりお互い連絡を取り合わなかった。

特に数学がまるでできなかった真緒が、今では浩介の作った資料の数字のミスの原因まで指摘してみせる。真緒からは幼さもなくなり、シンプルなリングを右手にはめるくらい大人になっていた。

一気に親しくなる二人だが、少しずつ真緒の不思議な過去が明らかになる。真緒には実の親がいない。幼いある日に衣服を全く着ていない裸の姿で発見され、保護されて里親に引き取られた真緒だった。

明らかに具合が悪くなる真緒なのだが医者の検査では何も異常なし。二人の幸せな暮らしの裏に忍び寄る不安…。

最後のどんでん返しには唖然とさせられた。単なるラブストーリーかと思っていたら完全な間違い。でも、真緒の一途さが心に響く。「女子が男子に読ませたい恋愛小説ナンバーワン」というのもうなずける。

有吉佐和子『連舞』 ― 2012/10/25

連舞
有吉佐和子『連舞』(集英社文庫、1979年)

仕事で舞踊の関係のことがあったので勉強がてら読む。

主人公・秋子は日本舞踊「梶川流」のお師匠寿々(すず)の娘。異父妹が生まれる場面からストーリーは始まる。主人公と違い家元の娘として生まれた妹・千春は舞の才能にも恵まれ常に注目される存在。それに引きかえ、見知らぬ父から生まれた主人公は舞の才能もなく、ただ師匠の娘という立場でしかない。妹とは違い「ねじり足」「鳩胸でっちり」で日本舞踊向きの体型でもない主人公は師匠の母からも母親としての愛も受けない。毎日肩身がせまい思いをしながらも無視されながらも踊りが好きで毎日稽古に励む。常に脚光を浴び母親の寵愛を集める妹に対して、疎外され続ける主人公・秋子。学校の成績が良くても、体操の時間に先生に評価されても何も嬉しくない。

ところが、終戦後、代替わりした若い家元に注目された秋子は、占領軍相手の舞台で主役に抜擢される。若い家元は野心家で、空襲で焼けた梶川家の稽古場兼屋敷を建て直すために勢力的に舞台をこなしていた。かつての梶川流では外国人相手に日本舞踊を見せることはなかっただろうが、新しい家元は意欲的に舞台に出て、米兵にも分かりやすい
場面を演出する。それは、主役の秋子を全裸にさせその肉体の魅力を観衆にみせることであった。

言うまでもなく女性が自らの裸を公衆の前にさらすのは大変屈辱的なことであり、秋子は舞台を前に「死にたい」とまで思っていたが、いざ舞台で裸になり、観衆の注目を一点に受けると、一転して堂々と舞台を歩き笑顔をふりまいてみせた。舞台が何日も続く中、日に日に自信をもって演じる秋子は、同時に「家元の妻」として堂々と梶川流を仕切るようになっていく。

妹の千春が進駐軍の舞台のプロモーターであるロバートと仲良くなりついには踊りを捨てて渡米してしまう一方で、「踊りの才能がない」「裸踊りをしてのし上がった」と陰口をたたかれながら秋子は梶川流をささえ踊りの稽古も欠かさず続けていた。「梶川月」として家元の正妻となってから4年たち秋子は「春の会」の舞台に立つこととなった。秋子は舞台で、これまでと打って変わって見事な舞を見せ、客席から盛んに拍手がくる。秋子もはじめて舞いに酔いながら踊る。家元からも評価を受けたが、厳しい母親・寿々からも初めて誉められる。そのような秋子たちのところへ米国から千春が戻ってくるところで話は終わる。千春の再婚相手は、なんと秋子のかつての恋人だった。

進駐軍の前で堂々とその全身を見せてから、秋子は恋も捨て、恥じらいも捨て、家元の正妻として堂々としたふるまいを身につけていった。その成長物語としてとても興味深い。秋子は幼いときから「槍ぶすま」の中で毎日を過ごし、母からも夫からも愛情を十分に受けないまま、そのようなものと諦めて日々梶川流の仕事をこなしていく。

また、同じ娘なのに姉妹の間であからさまな愛情の差を見せる母親との葛藤、その妹との複雑な思いなどの感情の描写もすぐれていた。おそらく著者本人が兄弟姉妹の間でこのような思いをしたのだろう、主人公の感情の起伏が非常にうまく描かれていて、読んでいて全く飽きがこなかった。

家元のせりふ(317ページ)で語られているが、「教祖」をひたすらたたえる「新興宗教」のような舞の世界は、家元第一で家元を中心に人とお金が動くきわめて独特な世界である。けれども誰も舞からは逃れられない。華やかな舞台の裏には、その世界特有の情念や怨念がうずまいている。現在の道徳や経済原理の理解をこえる世界である。伝統芸能の世界も時代の変化を受けて変わっていくことであろうが、その伝統的な世界の華やかさと裏を見せてくれた本書に感謝したい。

ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』 ― 2012/09/24

テルマエ・ロマエ
ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(インターブレイン、2009年)

よく寄るコンビニに平積みされ宣伝されていたのでこのマンガが気にはなっていた。たまたま夜のNHK番組に筆者のヤマザキマリ女史が出演し、イタリアに留学したいきさつなどを聞いたので興味を持ち、マンガだが買うに至った。ヤマザキ氏は中学生か高校生のときに一人でヨーロッパを旅することになり、たまたま列車の座席で一緒になったイタリア人から「イタリアを旅しないでヨーロッパを旅したことにはならない」という話を聞き、こんどは必ずイタリアに行くと約束することになり、それが縁でイタリアに留学することとなったという。

さて『テルマエ・ロマエ』のあらすじは、ローマの風呂設計技師ルシウスが、新しい公衆浴場の設計に悩んでいるところ、風呂に沈んだ際に現代の日本にタイムスリップというストーリー。しかも毎回日本の銭湯や温泉に出現。日本の銭湯や温泉の様々な趣向に感心し、これをローマに持ち帰って成功するというストーリーである。私たちから見れば当たり前と思う完全な円形の桶や、ラムネのビンの仕組み、銭湯のフルーツ牛乳などなど古代ローマ人のルシウスから見たら大変すばらしいものばかりなのである。

私たちがふだん当たり前と思っていることでも、違う視点から見れば大変すばらしかったり、工夫がこらしてあったり、あるいは独特な美意識で彩られたりしていることを指摘してくれて興味深い。現代人、特に日本人は、心地よいことを貪欲なまでに追求しているのだなあと思わされた(ウォシュレットやお風呂にテレビを持ち込むことなど)。何よりも日本の温泉・銭湯文化とローマ文化への著者の深い愛着が感じられて素晴らしい。

マンガを読んで面白かったので、映画も観に行った。阿部寛の演技はなかなか良かったが、原作にはない上戸彩の存在が原作の良さを損ねているように思った。原作では4巻までヒロインが現れず、それはそれでとても良かったのだが、一般受けするように映画版では冒頭からヒロイン上戸彩がマンガ家の卵として登場させている。原作4巻で現れるヒロイン小達(おだて)さつきは古代ローマ帝国にあこがれる歴史学者にて一流の温泉芸者という設定。美貌と知識とすぐれた芸事の技とを兼ね備えていて、映画の上戸彩とは雰囲気がずいぶんと違う。また、映画ではルシウスが皇帝に背く場面があるのだが、原作のルシウスからは考えられないことであるし、当時のローマでは皇帝に背いたら即殺されても文句は言えないのではないかと思った。でも、ローマの風景や公衆浴場のシーンはよく出来ていて感心。ローマ人の役で出演していた市村正親の演技も良かった。

ガロア-天才数学者の生涯- ― 2012/07/11

ガロア-天才数学者の生涯-
加藤文元『ガロア―天才数学者の生涯―』(中公新書、2010年)

多くの場合、数学の研究者は、世事から遠く離れて学問の世界に没頭するものだと思う。人間社会とは大きく異なり、極端に抽象化された世界にひたりこんで考えるのが数学だからだ。人間社会で何が起ころうと絶対的な真理が数学の世界にあるのだ。

ところが19世紀フランスの数学者ガロアはまったく異なる。共和派と王党派が争い続ける19世紀のフランスにあって、学生のうちから「人民の友社」という共和派の運動に関わり、それが原因で校長から放校処分を受けてしまう。放校処分の直後には「国家防衛砲兵隊」という共和派の結社に身を投じる。逮捕され、監獄暮らしを余儀なくされる。決闘をして20歳で亡くなるという急転直下の人生だった。

若くして亡くなるガロアだが、この短い生涯の間に近代数学史上最大ともいえる業績を残している。彼が考えた理論はのちに「ガロア理論」とされる。これは「数学的対象の難しさを、それに付随した対称性全体から成るシステムの構造によって記述する学問である」(245ページ)。

ガロアのいう「難しさ」「曖昧さ」と対称性について著者は方程式の根(解)を例にして説明している。

「1次方程式の根は1つしかない。それは簡単であると同時に1つに決まるという意味で曖昧さがない。しかし二次方程式の根は2つ同時に現れる。これらをαとβを用いて表すことが多いが、どちらがαでどちらがβなのかは決められないし、その区別は重要でもない。その意味で二者択一の曖昧さがある。そしてその曖昧さを統制するのが対称性、つまりαとβを入れ替えるという対称性である。」(248ページ)

二次方程式x2(xの二乗)+ax+b=0の解の公式はx=(-a±Q)/2 (ただしQはa2(aの二乗)-4bの平方根)。この公式に2つの解の対称性が現れている。すなわち+Qと-Qの対称性である。しかもこの方程式の解をαとβとしたとき、いわゆる判別式の平方根Qはαとβの差となる。「判別式の平方根を根の差で表すと、そこに見えてくるのは二つの根の入れ替えによって、その符合が替わる、つまり+(プラス)と-(マイナス)が入れ替わるという特徴的な性質である」(85ページ)。

このように「難しさ」「曖昧さ」が対称性のシステムで制御されているという考え方は、代数方程式だけでに適用されるのではなく、関数の難しさや空間の難しさにも適用される。この曖昧さを制御するのが「群」という対称性のシステムである。(249ページ)。ガロアのこの考え方は、計算だけによるのではなく概念をも対称とした「高位の数学」を予言したものであり、西洋数学の19世紀革命を予言したものであった。(246~247ページ)

現代数学の理論について全く知らない私にも、ガロアの「素晴らしさ」が丁寧に説明されており、とても興味深かった。難しいことを分かりやすく書こうとする著者の苦労には脱帽の思いだ。

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』 ― 2012/03/12

この世で一番大切なカネの話
西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(角川文庫、2011年)

以前ブログに書いた『日々是好日』の作者も週刊朝日に連載していたが、この西原理恵子も週刊朝日で「恨ミシュラン」という連載を書いていた。バブル経済真っ盛りの頃にミシュランにランキングされるような高級レストランに行って実際に食べてみる企画。大抵は言われているほどおいしくなかったり、サービスがよくなかったりしてその批評がおもしろかった。

さて本書は書評で見た。確か子供に読ませたい本のランキングで上位に来ていたと思う。でも自分が子供の時に読んでいたら良かった、と思った。
どん底の貧乏な世界では、暴力や犯罪、賭け事、アルコール中毒などがあたり前。著者の実体験をもとに書いているのでそのつらさ、しんどさ、みじめさが心に響く。

けれども、父親が自殺して家族が一番つらい時に、母が作者にぽんとなけなしの100万円を渡し「あんたは大学に行きなさい。」―本当に素晴らしいお母さんだ。

貧乏の連鎖、子供の時に受けたことを大人になって自分が繰り返してしまうことなどを考えさせられた。

森下典子『日日是好日』 ― 2011/09/11

森下典子『日日是好日』
森下典子『日日是好日―「お茶」がおしえてくれた15のしあわせ―』(新潮文庫、2008年)

久しぶりにブログを書く。

以前、お茶をいただく機会があり、とても貴重な経験をしたことはこのブログに書いたことがある。

たまたま手にしたこの本も、お茶の世界に関する本。お茶を長年お稽古している人の自伝。

著者がかつて週刊朝日に「典奴どすえ」というタイトルで記事を書いていたのを覚えている。その時のノリの良さとは違い、本書はとても静かで内面的な文章だ。誰だって、客観的につかめることを書く場合と、自分の内面を書く場合とでは文体が違ってくる。

「まえがき」には以下のように書かれている。

「世の中には『すぐにわかるもの』と、『すぐにはわからないもの』の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは(中略)何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、『別もの』にかわっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。」(5ページ)

著者も別のところで書いているが、お茶だけでなく人生もそういうことだと思う。すぐに分からないことがたくさんある。でも、その時にはその時に分かることしか分からない。大切なことは後になって「ああそういうことだったのか」と分かるものなのだ。

著者は「すぐにわからないもの」の話の後に、雨の日の体験を語る。

「それまでは、雨は『空から落ちてくる水』でしかなく、匂いなどなかった。」「(略)ある日突然、雨が生ぬるく匂いはじめた。『あ、夕立がくる』と、思った。」「(それまでは)私は、ガラスの瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆(おお)いがとれて、季節が『匂い』や『音』という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅(か)ぎわける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。」(6ページ)

人生の劇的な瞬間である。それまで数えきれないほどあった雨にはじめて「匂い」を感じた瞬間。雨にも色々な匂いがあること。その匂いが分かること。これこそ「生きている」と感じる瞬間である。

さて、本書のタイトル『日日是好日』は「にちにちこれこうじつ」と読む。「日々是決戦」(ひびこれけっせん)という標語に受験生のときに親しんだせいか「日日是好日」は「ひびこれこうじつ」と読みたくなったが、「毎日、どんな日でもよい日だ」という意味。第十三章「雨の日は、雨の音を聴くこと」で著者が「日日是好日」の意味にはっと気づく場面がある。

「雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分味わう。お茶とは、そういう『生き方』なのだ。そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが『苦境』と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。」「私たちは雨が降ると、『今日はお天気が悪いわ』などと言う。けれど、本当は『悪い天気』なんて存在しない。雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も『いい日』なのだ。」(217-218ページ)

いつもお稽古の場に掲げてある「日日是好日」の意味に、著者は長い時間をかけてようやく気付いたのである。このようなことが分かるということがまさに「生きている」ことなのだろう。

本書はとても味わい深い本だった。

それから、いま思えば、私がお茶をいただく機会を与えてもらったのも一つのご縁だと思う。このご縁をつくってくださった方々には、今でも感謝の思いでいっぱいだ。