村田沙耶香『コンビニ人間』(文春文庫、2018年)2024/07/15

村田沙耶香『コンビニ人間』
だれしも世間一般と違う、「普通」でない面を持っている。

主人公は結婚前の若い女性。彼女の「道徳意識」は世間一般とずれているが、たまたまコンビニエンスストアでアルバイトしたら、コンビニの世界の「普通」をマニュアルを通じて身につけて、生き生きと暮らせるようになった。コンビニで働いていれば世間の圧力から自由になれる。大学卒業したらきちんとした会社に就職しろ、若いうちに結婚して子どもを産め、という無言・有言の圧力を受けずに済むのだ。

このような人もいるのか、と面白く読んだ。

ただマニュアル化されたコンビニ文化は一種の「宗教」のようなもの、というくだりが本書に出てくるが、本当にその通り。健康で、体が丈夫でマニュアル通りにできないと、ニコニコしながら働けない。

コンビニ文化に適応できなかった「バイト君」も出てくるのだが、「縄文時代から男性の役割はこう、女性の役割はこう決まっている」などの彼の発言もどこかで聞いたことがある。いい年した男性が「定職」についていない場合のつらさという点では共感できる。

ラストが圧巻。途中で出てくる「あれ?」と思う場面が実は伏線だったことが分かる。この意味で構成も良くできている。芥川賞を受けるのもむべなるかな。

東工大モーレツ天才助教授の悲劇2022/09/11

今野浩『すべて僕に任せてください』
今野浩『すべて僕に任せてください』(新潮社、2009年)

将棋の世界では若き #藤井聡太 九段が活躍し、複数タイトルを保持しているが、分野は違えど数学の世界でも若くて優秀な人がこの国に何人もいて、それこそ世界レベルの仕事をしている。

42歳で亡くなった金融工学者の #白川浩 教授もその1人。中学・高校時代から数学と物理では常に学校のトップクラス。#金融工学 の研究に進むと、たとえば #ブラック=ショールズ公式 という金融工学の数式があるのだが、私のような門外漢からすると難解なこの公式も軽々と「消化」し、助手時代の1990年に「#金利オプション」について数理ファイナンス論文を書きあげる。これが米国の「Mathemathetical Finance」第一巻に掲載されて大評判となった。翌年1991年にもすぐれた論文を書き上げて、金融工学の世界で指折りのプリスカ教授・ボイル教授からも評価を受けるほどだった。

本書は早逝した優秀な弟子に寄せる指導教官の鎮魂歌だが、「理工学分野」の本なのに語り口が上手で、すらすらと最後まで読んでしまった。多くの理工学書は、数学の教科書に乗っている数式のように1行ずつ理解しないと次の行に読み進めないたぐいのものばかりだが、本書での工学部教授とは思えぬ文章に感心した。

この話の舞台は主として #東京工業大学。#東急電鉄 の #目黒線 #大井町線 が通る #大岡山駅 前に本部がある。駅前で何度かビラまきの手伝いをしたので、中には入ったことがないが東工大のことは印象に残っている。

どの職業でも仲の良しあしや派閥など人間関係が仕事に反映してくるが、大学の中も、指導教官と弟子の関係や、学科・講座間での競争意識、文系・理系の対立など、「理論」だけでは渡っていけない世界だ。

金融工学は応用数学になるが、研究者の世界では数学といっても代数・幾何・解析の純粋数学からは「格下」と見られているとのこと(76-77ページ)。この辺りは内部にいる者にしか分からない。

この本は、学者の世界や文学評論を描いた筒井康隆の『文学部只野教授』に似ているようにも思った。著者の「恨みつらみ」を作品にまとめているところは似ている。しかしながら筒井康隆の作品がフィクションなのに対してこちらはドキュメンタリー。
白川浩という天才を若くして失った著者の悲しみがベースにある。すぐれた研究者が「会議」「雑務」に縛られることなく、もっと研究に没頭できる環境を作れれば、もっと才能が発揮できて、すぐれた研究が残せたのに。

さらに言うと彼が抱えていたC型肝炎だが、今になっては良い薬もいろいろあるのだが、その当時は薬や症状などの研究が途上だったことも残念だ。

原田マハ『本日は、お日柄もよく』2021/07/04

『本日は、お日柄もよく』
原田マハ『本日は、お日柄もよく』(徳間文庫、2013年)

いぜん電車の中に広告があったので、少し気になっていた本。スピーチライターの話だと思って読んでみると、選挙演説や選挙運動の話にまで至ったのは意外だった。

全部が全部感情移入できるわけではないが、どのスピーチもよく考えて作られているのだろう。例えば、主人公の親友・千華の結婚式での「鈴木社長」のスピーチは社長と新郎との具体的なやりとりが印象的に使われているし、同じ結婚式での主人公のスピーチは反復が効果的に使われている。

オバマ大統領のスピーチのことも本書で触れていて、「スピーチは、ときとして世界を変えることもある」(365ページ)という伝説のスピーチライター・久遠久美(くおん・くみ)の言葉が印象に残る。言葉が全てを解決できるわけではないのだが、言葉が世界を変えられる場面もあるのだ。

自分も人前で話すことがあり、「話し方」を意識せざるをえない。ただ、何を話すか、どう話すかも大事だが、その背景にある「何を伝えたいか」「何が大切だと考えているのか」も大切だ。

本書でも単にスピーチのことを語るのではなく、スピーチする人間がどんな人か、どんなに悩んでいるかを述べているところに好感が持てた。

#柳美里 『#JR上野駅前公園口』2021/01/11

柳美里『JR上野駅公園口』
柳美里『JR上野駅前公園口』(河出文庫、2017年)

これまでたまに上野の国立美術館や東京文化会館に何度か足を運んでいたのだが、上野公園に住むホームレスの人たちのことは意識に留めたことがなかった。本書の主人公はそこに住む福島県出身のホームレスの男性。

天皇・皇后など皇族がこの上野界隈に来る場合、事前にホームレスの「山狩り」が行われていたことを、この本で初めて知った。天皇陛下の「きれいな」お言葉や振る舞いの陰には、ホームレスの排除があるのだ。もしかすると天皇陛下・皇后ご夫妻が被災地を回る時にも、同じようなことがあるのではないか。

解説の原武史氏が書いていたが、天皇は抽象的な国民に「おことば」で訴えかけられるが、実際の個々の国民のことは「見ていない」というある種の欺瞞がある。国民の統合の象徴であって、いわゆる政治家でも行政官でもないのだから、個々の国民の悩みや求めを聞いて、それに対応するという役割が与えられていない。天皇から(抽象的な)国民に一方的にメッセージが発せられて、「天皇が国民のことを心配している、思いやっている」というイメージは振りまかれるが、それはイメージの上だけである。

ただ本書では天皇制の問題よりも、長生きした人間がその人生の間に失った人・もののことばかり描かれていたことが印象的だった。このブログを書いている私も年齢を重ねて主人公の気持ちが「実感」として分かるようになってきたのだろう。今上天皇の浩宮様と同じ年の長男を失ない、妻を失ない、故郷を失い、最後に孫娘も東日本大震災の津波で失ってしまう。出稼ぎでひたすら働き、故郷の福島県に仕送りを続けて、年老いて何も残っていない。折に触れて主人公のホームレスの思い出す過去が描写される。過去の映像が色あざやかな反面、現在の上野公園でのホームレスたちの暮らしは灰色で対照的。

また上野公園の美術館などでの美しい展示、それを観に来る華やかな人たちと主人公のホームレスとの対比も印象に残った。

上野駅の電車の音や、冒頭の心理描写は冗長でカットしても良いのでは、と思った。

#朝比奈あすか #人間タワー2020/12/29

朝比奈あすか『人間タワー』(文春文庫)
朝比奈あすか『人間タワー』(文春文庫、2020年)

ひところ小学校などの運動会の「人間ピラミッド」「人間タワー」で子どもがけがをして問題になった。何かの雑誌にこの著者が記事を寄せているところを見て、それをきっかけに本書を読むことにした。

本書は、「桜丘小学校」の運動会の人間ピラミッドを媒介として様々な人の姿を描いている。この描写が読んでいる者の心を揺さぶって、それ以上読めなくなるときが何度もあった。それだけ心理描写がリアルだ。

第一話で夫の「遼」が浮気して帰宅しなくなって、それをきっかけに妻の「雪子」がふさぎこんで外出しなくなり、寝込み、食事を作る気も洗濯する気も起きなくなる…という負の連鎖。このあたりの表現を読むと、読んでいるこちらが雪子と同じように憂鬱になってくるような気になる。

第二話で老人ホームに入った「伊佐夫」が、たぶん認知症なのだろうか、過去の記憶と現在の生活が混乱して、亡くなった妻「鈴子」が今どこにいるかとふとした時にヘルパーさんたちに尋ねてしまうなど。自分もいずれ高齢になったら大なり小なりこうなるのだということを突き付けられたように思う。

第三話で「人間タワー」づくりの中心となる女性教師「沖田珠愛月」(おきた・じゅえる)の、自分の下の名前が子どもたちや同僚に笑われることに傷つき、そのことに敏感になるがゆえ名前の話題に触れさせない姿勢。

解説で宮崎吾朗も触れていたが、他校から桜丘小学校に転校してきた「安田澪」(やすだ・みお)が小学校6年生なのに、教室の人間関係や熱血教師「沖田珠愛月」のいやなやり方に気づき、人間タワーの問題点を大人のように解説してみせる。「わたしは人間タワーには反対だけど、人間タワーをやらないことにも反対」(190ページ)という安田澪の言葉が印象に残る。

最終話の第六話。ネットメディアのベンチャーに転職した「髙田剛」(たかだ・ごう)は、小さいころそろばんを習い暗算が得意だったが、暗算する際に想像上のそろばんを指ではじく「そろばんの指」を小学校の先生に禁止されて以来、いじめの対象になってしまった。しかし中学生になって髙田の暗算の能力も「そろばんの指」も評価してくれる先生と出会い、彼の人生が大きく拓いた。
第五話の以下のくだりも印象に残る。「この子たちは『今』だけを見ている。逆に言えば『今』しか見えていない。目の前の問題が、学校の中で起こることが、世界の全てなのだ。その頑強さと脆さに、胸が苦しくなる。」(259ページ)

「いま大変でも、いつか良いことが必ずあるんだよ」「あれか、これかで悩む時にも、別の視点があり別の解決策があるんだよ」というメッセージを著者から受け取った。

#古谷経衡 『#愛国商売』(小学館文庫、2019年)2020/05/06

古谷氏の講演会があるというので、講演会に出席する前に読んでおこうと入手したが、新型インフルエンザ感染症のため講演会は中止。しかしながら目を通してみると本書は結構楽しく読めた。

主人公の南部照一は北関東の茨城県取手市で私書箱業を行う自営業者だったが、書評サイトを通じて知り合った書店員の岩尾徹から「公論の会」という右翼勉強会に誘われたのをきっかけに、あれよあれよという間に「ネット右翼(ネトウヨ)」の世界で有名人へと昇りつめる。

主人公の南部にとっては「サクセス・ストーリー」かもしれないが、「ネトウヨ」界の「(テレビ・新聞などの既存メディアを一切信じず、自分たちに都合の良いネット情報を過信するという)レベルの低さ」「論者自身の収入をどうやって稼ぐか、守るか、増やすかという経済的打算に基づく内部抗争」「勉強会構成員の血気盛んな直情径行」などを小説の形で表現している。ネトウヨ界の論者たちの中には「どうすればネトウヨに受けるか」を考え、事実に基づかない「陰謀論」「反韓国・朝鮮」「反中国」を威勢よく唱え、これを聞きに集まる者から会費を徴収することで月々の生活を成り立たせている。まさに「愛国」を商売にしている。

この文庫には佐藤優氏の解説がついている。解説のタイトルが「自らのグロテスクで滑稽な姿を見つめよ」となっている。「ここで古谷氏が試みているのは、保守派の欺瞞を暴くことではない。保守派、リベラル派を問わず、政治的な事柄に関わる人々が、必然的に陥る罠を描こうとしたのだ」(443ページ)という佐藤氏の言葉がグサリと刺さる。

本書で主人公が講演した際に明確に否定した「ルーズベルトが真珠湾攻撃を事前に知っていて、それを知って虎の子の航空母艦を真珠湾から他の地に移動させていた」という話を『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』(加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス著、祥伝社新書、2012年)で読んで、これを信じていたからだ。恥ずかしいことだが、歴史的なことは複数の書籍にあたらないと「トンデモ話」に引きずられてしまうことを実感させられた。

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』2019/12/25

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋刊、2018年)
#姫野カオルコ #彼女は頭が悪いから #上野千鶴子

今年2019年の東京大学の入学式で上野千鶴子名誉教授が例年とは大きく異なる祝辞をよんだ。 https://wan.or.jp/article/show/8334
その中で触れられていた本。

東京大学の学部生と大学院生による女子大生への強制わいせつ事件が実際にあり、それをモチーフに書かれた本である。庶民的な家庭に育った神立美咲(かんだち・みさき)が、事件に遭うまでの経緯を時系列的に書いている。

読みやすい文体で途中までスムースに読めたが、途中からは読むのがつらくなった。以下は感じたことを箇条書きにする。(ネタバレ御免)

・ある大学の男子学生が「大学名だけでモテる」というのは異常(モテなかった男のひがみかもしれない)。確かに「偏差値」が高く、将来の高収入も約束されているエリート大学の学生かもしれないが、一人一人の個性とか人格に関係なくモテるというのは、モテている本人も増長させるしそれに近づく異性もどうかしているのではないか。

・ある大学に合格したというのはその人の属性の1つでしかないのに、それを極端に重視するのは異常ではないか。

・偏差値の高い大学に受かった学生は、そうでない人に何をしても構わないという誤った「万能感」。学歴が「高い」人はそうでない人を見下してよいとする異常な「優越感」。このような「優越感」が「劣等感」の裏返しであることは、この本からもうかがいしれる。

・受験勉強と引き換えに「他人への思いやりや同情」「人と人との間の感情的なつながり」を失わせてしまう、現在の受験システムに問題があるのではないか。特に、短い時間の間に、与えられた多くの問題を誤りなく解けるようにしないと試験に合格しないというシステムがあると、受験生は試験以外にもある大切なことを全て切り捨てないとならなくなるのではないか。

・東京大学の男子学生と他の女子大学の学生との「飲みサークル」自体は問題ではないかもしれないが、飲み会後の性交が半ば定例化し、参加した女性の「裸体動画」等をネットにアップして閲覧者からカネを取るという下品な「システム」に唖然とした。このような品のないことをしていて恥ずかしいと思わないのはどうかしている。それから女性と関係を持ちたいのであれば一人でやれば良いのであって、「サークル」を使ってそれこそ「サイクル」のように次から次へと女性を「調達」するという仕組みを作らねばいられない、あるいはそれが問題あると気づかない感覚が分からない。

・加害者の男子学生に共通する「父親への嫌悪感」

・自分が誤っているかもしれない、ということを考えられないのは不幸だ

とにかく後味が悪い小説。自分が大学生だったときに、このような環境にいたら加害学生と同じことをしたかと言うと、そうは思わない。ただ自分が小学生の時にした男どうしでのいじめを思い出させられた。仲良かった男の子と一緒につくったプラモデルを、他の男の子と一緒になって燃やしたり壊したりしたことは、思い返しても悪いことをしてしまったな…と。

この本の救いは、主人公の神崎美咲の大学の先生「三浦紀子教授」。かつて男子学生からひどい言葉をかけられて苦しい思いをしてきた三浦教授が神崎美咲にただよりそってくれたのを見ることで、いくらか救われた気がした。

二宮敦人『世にも美しき数学者たちの日常』(幻冬舎、2019年)2019/05/12

『世にも美しき数学者たちの日常』
先日、縁があって東京・下北沢のB&Bという書店での本書に関するトークイベントに参加してみた。小田急線の下北沢の駅周辺を歩いたことがなかったが、以前同じ職場で働いていたTくんが大学生のとき下北沢のダーツバーに入り浸っていたという話を聞いていたので、街そのものへの興味もあった。仕事の中であちこち出張することはあるが、私は下北沢を通り過ぎることはあってもこの駅で降りて街を歩いたことはない。

トークは本書の著者二宮敦人氏と、本書に登場する数学者の加藤文元氏(東京工業大学教授)による対談。もともと数学が苦手で文筆の世界。で仕事する二宮氏からは、実は小説の世界と数学の世界には共通性があるというお話があり、加藤教授からは数学そのものの説明や数学者についてのコメントがあった。

この対談で印象に残ったことは、加藤教授から「数学と音楽の共通性は論理性だ」という話の中で論理性とは「気持ちが良い」ということという説明だった。確かに、音楽で例えばフレーズの最後で複雑な和音がきれいな和音に変化して終わると気持ち良さを感じるし、数学の問題を解く際に複雑な計算しなければならないところがシンプルな解法で解けた際に心地よさを感じる。加藤教授は対談の中で「何もかも分からない真っ暗闇な中でとにかく手探りでいろいろもがき、たまたま部屋の電灯のスイッチを探しあててそのスイッチを入れると部屋の全てが明らかになる、この瞬間をきれいだなと思う」と述べている。論理的に全てが整然と解き明かされる瞬間の快感ということなのだろう。

対談の中で、時折数学用語が出てきた。「オイラーの公式」のほかに「P進数」「ゼータ関数」など。オイラーの公式は小川洋子の『博士の愛した数式』にも出てきたのでなんとなく覚えているが、特にゼータ関数のことが気になった。二宮敦人氏の『世にも美しき数学者たちの日常』にも何度か現れる。対談でも加藤教授が東京工業大学名誉教授の黒川信重(くろかわ・のぶしげ)先生が名刺に「ゼータ研究所」と入れており、大学の研究室にも「ゼータ研究所」という「表札」をつけていたという話をしていた。

ゼータガンダムは聞いたことがあるがゼータ関数は初めて聞いた。

とても論理的とは言えない日常生活や職業生活の中で、仕事や日常から離れて数学の論理の世界に短時間ながら触れることができて、とても楽しい対談であり書籍だった。

佐藤健太郎 『医薬品クライシス』2017/05/07

佐藤健太郎 『医薬品クライシス』(新潮新書、2010年)

 著者は元・医薬品メーカーの研究職。必ず副作用が発生してしまう、人によって効き目が違うなど医薬品の限界の限界を、医薬品研究の専門家だからこそ実感している(第三章 全ての医薬品は欠陥品である)。

 本書で興味深かったのは、新薬開発の巨大リスク対策として進んだ製薬企業の大合併のあとに、各社ともすぐれた新薬が市場に送りだせていない問題だ。企業規模がそこまで大きくないうちは野球で言う「ヒット」をめざす新薬開発で良かったものの、企業規模が巨大になると「ホームラン」指向の新薬開発にならざるをえない。巨額の投資をしても臨床試験での成果がなかったり医薬当局の認可が下りなかったりすれば、大損害である。
 新薬メーカー各社ともに特許が切れてしまうと、同じ成分を持つジェネリック医薬品が出てきて、特に米国では劇的に「新薬」の売上が落ちてしまう。このため、特許が切れる前に次の新薬を世に送り出さねば、と躍起になっている。本書が発行された2010年の前後には、売上が巨額だが特許切れになる医薬品がいくつもあり、各社ともに切羽つまっている。

 本書でこの例として述べられていたのが、米国にある世界最大手のファイザーである。ファイザーは、高脂血症治療薬リピトールを開発したワーナー・ランバートを敵対的買収によって取得(その後もファルマシア、ワイスを買収しますます「メガファーマ」として規模拡大)。2007年にはファイザーの全売り上げの約3分の1となる約4兆5000億円もリピトールが生み出していたが、この特許が2011年に満了してしまう。
 このリピトールの特許切れを迎える前に次の「ブロックバスター」(巨額売り上げの医薬品)を目指し、善玉コレステロールを増やし悪玉コレステロールを減らす新薬をねらって「トルセトラピプ」の開発・臨床試験に8億ドルもの巨額を投資。血管にコレステロールの沈着を防ぎ、心血管障害を抑えるはずのこの物質が、逆に心臓発作の発生を増やしてしまうことが明らかになり、2006年に開発の断念に至った。この開発中止から1か月とたたずにファイザーは従業員1万人の人員削減を発表。日本法人でも1200人が失職した。著者は言う。「トルセトラピプの失敗は、単にひとつの化合物がドロップしたというだけでなく、医薬品のひとつの時代の終わりを告げる出来事であったようにも思えた。」

 かつて「ゲノム創薬」がもてはやされた時代もあったが、今となってはゲノム解読は進んでも「ゲノムが全てではない」という考え方を生命科学界に示すようになった。DNAの塩基配列が分かれば病気のかかりやすさが分かるという単純なことではないというのだ。「テーラーメイド創薬」は遠のいた観がある。
 「抗体医薬」という新たなジャンルの医薬品も登場した。それまでの医薬品は、目指す消化器官で消化されて血管に入り、かつ肝臓で「解毒」されないようにして血管から患部に届き、細胞内に入るよう「小粒」なつくりのものばかりだった。1つのたんぱく質をバスケットボールだとすると医薬品はピンポン玉の大きさになる。これに対して、たんぱく質そのものを医薬品として患者の血管に点滴で入れて、白血病やリウマチのように細胞の外に病因たんぱく質がある場合にこれをターゲットとするのが「抗体医薬品」である。バイオベンチャー・セントコア社が開発したリウマチ治療薬「レミケード」は目に見える副作用なく劇的な効果をもたらし、リウマチ患者が数週間で階段を駆け降りられるようにまで改善。年間売り上げが50億ドルに上る。
 しかし、この抗体医薬が効くのは一部のガンやリウマチ、感染症などに限られる。細胞や中枢系には入っていけないため、これまでの低分子医薬品にとって代わるということにはならない。

 21世紀に入って新薬の認可が格段に減り、創薬を行う医薬品メーカーは危機感をもっている。病気に苦しむ多くの患者にとっても、画期的な新薬が待ち遠しい。

 著者は「創薬力は落ちていない」と述べる(151ページ)。20年前、30年前とは比べものにならないほど創薬技術が進歩したのに新薬が上市されない理由としていくつもの複合的な原因があるという(第5章 迫りくる2010年問題)。

(1)作用機序のはっきりした「分かりやすい」疾患にはすでに完成度の高い医薬品が出ているため新薬が出にくい。新薬の開発領域として残っているのはガンをはじめ難病ばかりになっている。

(2)モデル動物の不備。例えばアルツハイマー症など中枢神経系の病気のモデル動物とは何なのか、研究者の多くがモデル動物の問題を指摘する。

(3)コンビケム、SBDDなど創薬新技術の限界。コンビケムとはコンビナトリアル・ケミストリーの略で、例えばA-B-Cと3つのパーツからなる化学物質について、それぞれのパーツにそれぞれ20種類のバージョンを用意し、20×20×20で8000種類の化合物を創り出せる技術のことをいう。その化合物がターゲットのタンパク質を阻害する能力があるかをふるい分ける「スクリーニング」のスピードが格段に速まる(144ページ)。しかし、コンビケムでは多種類のパーツを同時に結合させなければならないため、複雑な反応は使えず、例えるならレゴブロックで組み立てるようなものになる(156ページ)。普通の化合では粘土のように自由に創造できるので、コンビケムに限界があるのだ。
またSBDDとはストラクチャー・ベースド・ドラッグ・デザインのこと。ターゲットタンパク質を結晶化させ強力なX線を照射して分析すると、タンパク質の構造を原子一つ一つの位置まで正確に分析できる技術である。構造データが分かれば、病因たんぱく質にうまくあてはまる分子をデザインできるということだったが(145ページ)、タンパク質は柔軟でダイナミックに変化しているため結晶分析の通りの構造とは限らず、複雑なタンパク質の運動のシミュレーションは現在の技術ではムリなのだ。

(4)厳格化する安全基準。米国メルク社が鎮痛薬として販売した「バイオックス」(日本では発売されていない)は年商25億ドルを超える売り上げを誇ったが、心筋梗塞など心疾患の副作用があることが判明し、メルク社が不都合なデータを開示していなかったことから、米国食品医薬局の審査が厳格になった。これを受けて危険な化合物は創薬段階からふるい落とす技術が進んでいる。しかしこのふるい落としのために、将来医薬品として実用に至る可能性があるものも排除しているおそれがある。

(5)企業の大型化と合併による保守化。そもそも創薬の99.9%以上が失敗に終わるが、コスト優先発想の上司が研究部門のトップにつけば「実現可能か怪しいものは早目にストップさせよう」となってしまう。新薬の芽をつぶしているかもしれないが、それは誰にも分からない(アリセプトなど新薬のいくつかは開発中止を宣告されても研究者の執念で上市にいたっている)。

(6)発想の芽を摘む成果主義。製薬企業の研究部門では半年単位で研究テーマの評価がなされるようになったため、帳尻合わせのために駆け込みでレポートを出すようになってしまった。化合物だけはたくさん生まれても、新薬開発に至っていないのではないかと筆者は指摘する。短期的な成果で給与や昇進が決まってしまうので、与えられたミッション以外のことをしなくなるということがむしろ新薬開発のブレーキになっている可能性がある。(例えば、三共で開発された高脂血症薬「メバロチン」は開発断念後にも「闇実験」を通じて新薬にいたる途が開けた)

 これらの筆者の指摘は現場からの発信だけに否定できないものなのだと考える。しばらくの間、新薬開発を行う製薬企業は次の創薬のスタイルを模索することになるのであろう。

 本書の最後「おわりに」に書いてあることもとても気になった。ある研究者が「ガンなんて治しちゃってほんとにいいんだろうか」と問いかけた。私たちは誰 しもが死に至る存在なのに、ガン治療薬などを通じて100歳を超えて生きるのが当たり前になったとしたら、年金財政はますますもたなくなるし、認知症患者が増えるなどで介護にかかる家族の負担が一層重くなってしまう。「不老長寿」は人類の長年の夢だが、このように死を遠ざける社会は果たして本当に健全な社会なのだろうか?

 高度な医療が進歩したために「スパゲッティー状態」で生きながらえる病人の「生活の質」の問題でもそうなのだが、私たちは単に「生きること」「長く生きること」に価値を置くのではなく「良く生きる」ことに価値を置く社会にしていかなければならないのだろうか? しかし、目の前で家族が病に苦しんでいるのを前にして、回復を祈らない人がいるだろうか。答えのない問いとして著者は読者に質問をなげかけるのだと思う。「医薬品がどこまでも進歩するとして、医療がどこまでも進歩するとして私たちは本当に幸せなのだろうか?」と。

桑嶋健一『不確実性のマネジメント―新薬創出R&Dの「解」―』2017/05/05

桑嶋健一『不確実性のマネジメント―新薬創出R&Dの「解」―』(日経BP社、2006年)

「千三つ」は1000のうち3つしか本当のことがない嘘つきや、1000のうち3つしか話がまとまらないという不動産屋などの例えとして使われるが、新薬の世界ではこれより当てのならない「三万に一つ」である。新薬を開発するために調べる化学物質約2万から3万種類に対してようやく1つの新薬ができると言われているのだ。

このように成功確率の低い新薬開発を、製薬各社はどのようなアプローチで進めているのかを経営学の観点から論じた本である。

2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智さんは、アフリカの風土病を予防できる劇的な新薬を開発した方だった。受賞直後には大村さんに焦点をあてたテレビ番組があったが、新薬開発にはこのような研究者じたいの意欲・能力だけでなく製薬企業の研究体制、方針、意思決定などが大きくかかわっている。

本書で印象に残っている主なことは、新薬開発のアプローチが往々にして「ゴミ箱モデル」にあてまはること、新薬開発を効率よく行っている企業において入口を広くして多くの化学物質にあたりながらも絞り込みを適切に行って確実に新薬につなげる開発プロセスを実施していることだ。

ゴミ箱モデルとは、標準的な意思決定のモデルになじまない曖昧な状況、つまり「問題」「解」「参加者」「選択機会」などがそれぞれ独立して存在し、互いに無関係な状態が前提になる。意思決定に関わる人たちがまるでゴミ箱にゴミを投げるように「問題」や「解」を投げ入れ、解決に必要なエネルギーがたまったときに、あたかも満杯になったゴミ箱が片づけられるかのように選択機会が片づけられて決定が行われると考えられるという意思決定モデルである(63-64ページ)。

著者はその開発過程がゴミ箱モデルにあてはまるものとして、多くの職場で使われているポストイットを例に挙げている(61-63ページ)。

これは米国のスリーエムで働く研究者スペンサー・シルバー氏が開発した接着剤が発端だった。シルバー氏は「しっかり着く」接着剤を目指して開発を進めていたが、「しっかり着くが、簡単にはがれる」接着剤が出来上がってしまった。しばらく失敗作として放置されていたが、開発されてから5年後に、コマーシャル・テープ事業部で働くアート・フライ氏が聖歌隊で讃美歌を歌っている際に、栞が落ちるのを見てたまたまこの接着剤のことを思いついた。「しっかりくっついて、容易にはがれるあの接着剤を栞に使えば、栞が落ちずにすむのではないか」こうして1980年に「ポストイット」として売り出されたがこの商品が大ヒットして今でも多く使われていることは、このブログを読むあなたもご存じだろう。

自動車や電化製品など多くの開発では、解くべき「問題」「課題」が先にあり、それを解決するために「開発手段」が用いられて、「解」として新製品が開発されるという経緯をたどるのに対して、このポストイットでは「しっかり接着できるが、簡単にはがれる」接着剤という「解」が先にあり、それに対して「栞」に使うという「課題」が後から発見されている。「問題」「解」「開発」がそれぞれ独立に存在して、たまたま結びついて新製品となるわけだ。

同様に新薬開発現場でも、「アイロンを開発しようとしてポットが出来上がる」ような経過をたどる。

エーザイ株式会社で研究員であった杉本八郎氏は、母親が認知症にかかったことにショックを受け、これを治療する薬を開発しようという強い決意で研究をスタートさせた。

研究が始まった1982年にはまだアルツハイマー型認知症のメカニズムが解明されておらず、記憶に関係する神経伝達物質アセチルコリンの減少が影響しているのではないかという仮説の段階。杉本氏はアセチルコリンを分解してしまう酵素(アセチルコリン・エステラーゼ)の働きを阻害する物質を開発すべく多くの化合物を合成し、検査した。アセチルコリン・エステラーゼ阻害薬としてTHAという物質が知られていたが、これは特許をとられているため別の化合物で同様の働きを行うものを探さねばならないのである。来る日も来る日も化合物を探索するが一向に発見できず、杉本氏は「撃墜王」と呼ばれるようになる。「撃墜」とは、この業界で化合物が失敗することを言う言葉であった。ところが、杉本氏の研究室で動脈硬化という別テーマで研究されていた物質「C35-808」にアセチルコリン・エステラーゼ阻害機能があることが判明。これをリード化合物として、約700の誘導体をつくり、その中でも有効な成分を持つ「11D189」が選ばれた。ところがこの物質の「生体利用率」がわずか2%と低いことが判明し、開発中止の決定がされてしまう。なお、生体利用率とは、投与された薬品が肝臓で分解されずに患部(病巣部分)にたどりつく割合であるが、最低でも10%以上ないと薬として使いものにならない。杉本氏や研究チームのメンバーはあきらめきれず「1年だけ」という条件付きで開発継続が認められた。1986年12月、「薬効」「安全性」「生体利用率」などすべての面で目標を満たす物質「E2020」を発見。前臨床試験、臨床試験フェーズ1、2、3を経て、最初に米国食品医薬品局FDAで承認され1997年12月に「アリセプト」として発売。日本では1999年11月に発売された。動脈硬化に効くとして研究されていた化合物がアルツハイマー型認知症の薬になったのであった(39-49ページ)。

このように「どの化合物がある病気に有効に作用するか」を研究する「上流」では研究者個人の能力や情熱、偶然、などに左右されるが、医薬品研究開発の「下流」では企業がどのようにマネジメントするかで成果が異なる(第3章 医薬品開発における競争優位の源泉は何か?)。著者によれば「go or no-goの判断」が大きな要因になっている。

筆者は武田薬品工業を取り上げて、市場発売までたどり着く可能性がありそうな化合物全てを対象として臨床試験を進めれば大幅なコスト高となり、かといって「間違いなく成功する」化合物にしぼって臨床試験を行うのなら、市場発売までたどり着く可能性のある化合物を「間違って落としてしまう」可能性があるというジレンマにどう取り組むか、述べている。そのため「大きく網をはってタイミング良く絞り込む」ことが必要になるが、この点で武田薬品工業は当時の国内企業の中で一番すぐれているのである。

ちなみに本書が発行されたのは2006年だが、それ以降国内医薬品メーカーは合併や外資との合弁が進んでいるため、今年2017年とは国内医薬品メーカーの状況が異なっている。

また、医薬品が他の製品の開発と大きく異なるのは、臨床試験段階に至って不具合が出ても、化合物を多少改良して臨床試験するというわけにはいかない点である。化合物に不具合が見つかれば開発中止となって、また1から物質を開発しなおす必要があるのだ。

医薬品開発の「下流」にあっては開発コストが無視できない。臨床試験はフェーズ1、2、3と分けられており、フェーズ1は少数の健康な人を対象に行ない、臨床試験フェーズ2(前期・後期)では少数の患者を対象とし、フェーズ3では多数の患者を対象とする。フェーズ1では多くて数億円かかり、フェーズ2(前期)では10億円程度かかる。ところが、フェーズ2後期では臨床費用がかさみ、厚生労働省への申請データ作成や生産準備などの費用がさらに大きくかかり、フェーズ3では数十億円から100億円ともいわれる多額の費用がかかってしまう。このためフェーズ2前期までは幅広く化合物の研究と臨床試験を行うが、フェーズ2後期に入る際に「確実に上市できる化合物」に絞り込むことが最適な選択となる。

筆者は「生存時間解析」「生存確率」という手法を使って、国内各社がどれだけの医薬品開発プロジェクトを行い、それがどれだけの割合まで絞り込まれて、最終的に市場販売まで成功しているかを国内企業について比較している。当時、国内医薬品メーカーの中で武田薬品工業の評価が高く「医薬品のトヨタ」と称されていたけれども、確かに武田薬品工業こそが幅広く臨床試験フェーズ1、フェーズ2前期を進めるが、ここで絞り込みを行い、フェーズ3に進んだ化合物については全て市場販売まで実現させており、フェーズ2終了後から上市までの成功確率は国内メーカー第1位である(93ページ図3-1、表3-5)。

武田薬品工業が「大きく網を張って、タイミング良く絞り込む」ことができる背景には因果関係知識の蓄積と、意思決定システムの点で優れていることが挙げられ、かつ絞り込み戦略でも優れていることも重要である(94-100ページ)

劇的な新薬を開発する現場について、経営学の観点から読み解くことが出来たことは大変興味深かった。