大使館なんかいらない ― 2010/07/05
久家義之『大使館なんかいらない』(幻冬舎文庫、2002年)
以前外交官の特権が批判された時があった。外交機密費流用事件や裏金プール事件などなど。でも、本書を読むとそのような問題は氷山の一角でしかなくて、外務省の本質的な問題はそんな問題ではない。その問題意識がこの題名になっているのだが、「外交できちんと国を護る」(文庫版まえがき 7ページ)ことが外務省に出来ているのかというのが著者の問題提起である。
そして、外務省や大使館が抱える問題が国内でそれほど問題にならないのは、外務省の問題点を知っているのも外務省だし、問題を裁くのも外務省という閉じた仕組みになっていることもあるようだ。「状況を把握しているのは外務省のみである。いちばん事情がわかっている者と、批判される者が同一であるため、いつも批判が最小限に抑えられる」(2「世界にさらした大恥」44ページ)。この問題は他の省庁にもあることだろう。
しかし大使館のまわりには日本から仕事や旅行で来ている日本人もいるし、マスメディアの支局もあることだろう。でもあまり問題にされない。著者はその理由を以下のように述べている。
「なぜか。わたしの推量にすぎないが、理由はいくつか考えられる。ひとつは現実的な利害関係。大使館の機嫌を損ねると仕事に差し障る人は、何を見ても口をつぐんでいる。(中略)あるいは権威に対する思いこみ。大使館とか外交官というと、なんとなく権威があるようで、多くの人は厚遇も仕方がないと思い込んでいる。(中略)さらには、人々の無関心もあるだろう。(中略)一般の人々から批判がでなくても、現地のマスコミさえ批判しないのはなぜだろう。(中略)大使館とマスコミが持ちつ持たれつだからだ。」(315-317ページ)著者は、大使館がマスメディアに悪くかかれないように接待もするし、マスメディアもニュースがほしくて大使館から情報をもらうと書いている。
もちろん多くの外交官がまじめに仕事をしているのは分かるが、どうも外務省や大使館はシステムとして、外交官を外交そのものではないものに関わらせようとするようにできているのではないかと考えさせられた。大使館も外交官も必要なものなのだが、その働き方や職場の在り方が本来めざすべきところとずれている面がある、というのが本書の題名に対する私の答えである。
以前外交官の特権が批判された時があった。外交機密費流用事件や裏金プール事件などなど。でも、本書を読むとそのような問題は氷山の一角でしかなくて、外務省の本質的な問題はそんな問題ではない。その問題意識がこの題名になっているのだが、「外交できちんと国を護る」(文庫版まえがき 7ページ)ことが外務省に出来ているのかというのが著者の問題提起である。
そして、外務省や大使館が抱える問題が国内でそれほど問題にならないのは、外務省の問題点を知っているのも外務省だし、問題を裁くのも外務省という閉じた仕組みになっていることもあるようだ。「状況を把握しているのは外務省のみである。いちばん事情がわかっている者と、批判される者が同一であるため、いつも批判が最小限に抑えられる」(2「世界にさらした大恥」44ページ)。この問題は他の省庁にもあることだろう。
しかし大使館のまわりには日本から仕事や旅行で来ている日本人もいるし、マスメディアの支局もあることだろう。でもあまり問題にされない。著者はその理由を以下のように述べている。
「なぜか。わたしの推量にすぎないが、理由はいくつか考えられる。ひとつは現実的な利害関係。大使館の機嫌を損ねると仕事に差し障る人は、何を見ても口をつぐんでいる。(中略)あるいは権威に対する思いこみ。大使館とか外交官というと、なんとなく権威があるようで、多くの人は厚遇も仕方がないと思い込んでいる。(中略)さらには、人々の無関心もあるだろう。(中略)一般の人々から批判がでなくても、現地のマスコミさえ批判しないのはなぜだろう。(中略)大使館とマスコミが持ちつ持たれつだからだ。」(315-317ページ)著者は、大使館がマスメディアに悪くかかれないように接待もするし、マスメディアもニュースがほしくて大使館から情報をもらうと書いている。
もちろん多くの外交官がまじめに仕事をしているのは分かるが、どうも外務省や大使館はシステムとして、外交官を外交そのものではないものに関わらせようとするようにできているのではないかと考えさせられた。大使館も外交官も必要なものなのだが、その働き方や職場の在り方が本来めざすべきところとずれている面がある、というのが本書の題名に対する私の答えである。
新解さんの読み方 ― 2010/07/09
夏石鈴子『新解さんの読み方』(角川文庫、2003年)
以前、私は赤瀬川源平の『新解さんの謎』を読んだことがある。『新解さんの謎』に編集者として関わった「SM嬢」が鈴木マキコ嬢(イニシャルをとってSM嬢)である。その鈴木マキコ女史が「夏石鈴子」としてみずから書いた本が本書である(「はじめに」14-23ページ)。
著者は新明解国語辞典の語釈の中味の濃さに気がついて、辞書を調べるのではなく読んでいる。語釈や用例や版による違いなどに敏感に反応してこのような本をまとめたわけである。
確かに新明解国語辞典は、語釈や用例に「攻め」の姿勢がある。「どうだ!」という新解さんの意気込みが聞こえてくるようだ。たとえば、「恋愛」。
【恋愛】特定の異性に特別の感情をいだいて、2人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。
以上は新明解国語辞典の第4版の語釈。「合体したい」という表現は多少違和感があるが、マンガ「釣りバカ日誌」にも出てくる表現で「性交」の婉曲表現である。
さて「恋愛」の語釈が第5版になって多少変わってくる。
【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいき、高揚した気分で、2人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
さらに表現に熱が入っている。ただし「合体」という表現が「肉体的一体感も得たい」という表現に変わっている(『新解さんの読み方』138-139ページ)。「恋愛」の二つの表現をみるだけで、なかなか味わいがある。このように「新明解国語辞典」に現れてくる人格を著者は「新解さん」と名付けて、彼の考えや行動、嗜好にひきつけられている。
たとえば、何のことはない単語にも「新解さん」の思いがひょっと表れている。たとえば【拠(り)所】。用例を見ると、
「生活の―。心の―〔=生きて行く上に必要な、心の支え。具体的には、生きがいを与えるものとしての宗教・愛人・家庭・研究や、自分を高めるための将来の目標などを指す〕」
なお、「―」は辞書でよく使われる記号で語釈の書いてある単語それ自体が入る。それで「心のよりどころ」には宗教の次に愛人が来ていて、それが家庭より先に書いてある! 「新解さん」にとってみれば宗教の次に愛人が心のよりどころになり、家庭はその次なのだ! 「新解さん」の見方がここに表れている(本書257ページ)。
同様のことは「忘れる」の用例にも垣間見える。「妻子を―」となっている(本書324ページ)。あまり他の国語辞典では「忘れる」の用例にこのような例は使わないだろう。
多少横道にそれたが、本書を読んで思ったのは、新明解国語辞典は国語辞書の模範たらんと高い理想を掲げて書かれた辞書であり、社会的批判や風刺も織り交ぜた自己主張のある辞書であるということ。多少遊び心もまじえつつも、真剣に辞書をつくる姿勢には、本書を通じて感心した。
たとえば、第5版で現れた「非加熱製剤」。
【非加熱製剤】血友病などの治療のために米国から輸入された製剤。これがエイズウイルス(HIV)に汚染されていたため、投与された多くの患者がエイズに感染し、死亡した。
筆者も言うようにここには「新解さん」の強い憤りと同時に、歴史に言葉を刻もうとする強い意志も感じる。辞書もここまでその土俵の中で「戦える」のだ。私も「新解さん」にならって、少しでも仕事の中で「戦え」ないかと思った。
以前、私は赤瀬川源平の『新解さんの謎』を読んだことがある。『新解さんの謎』に編集者として関わった「SM嬢」が鈴木マキコ嬢(イニシャルをとってSM嬢)である。その鈴木マキコ女史が「夏石鈴子」としてみずから書いた本が本書である(「はじめに」14-23ページ)。
著者は新明解国語辞典の語釈の中味の濃さに気がついて、辞書を調べるのではなく読んでいる。語釈や用例や版による違いなどに敏感に反応してこのような本をまとめたわけである。
確かに新明解国語辞典は、語釈や用例に「攻め」の姿勢がある。「どうだ!」という新解さんの意気込みが聞こえてくるようだ。たとえば、「恋愛」。
【恋愛】特定の異性に特別の感情をいだいて、2人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。
以上は新明解国語辞典の第4版の語釈。「合体したい」という表現は多少違和感があるが、マンガ「釣りバカ日誌」にも出てくる表現で「性交」の婉曲表現である。
さて「恋愛」の語釈が第5版になって多少変わってくる。
【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいき、高揚した気分で、2人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
さらに表現に熱が入っている。ただし「合体」という表現が「肉体的一体感も得たい」という表現に変わっている(『新解さんの読み方』138-139ページ)。「恋愛」の二つの表現をみるだけで、なかなか味わいがある。このように「新明解国語辞典」に現れてくる人格を著者は「新解さん」と名付けて、彼の考えや行動、嗜好にひきつけられている。
たとえば、何のことはない単語にも「新解さん」の思いがひょっと表れている。たとえば【拠(り)所】。用例を見ると、
「生活の―。心の―〔=生きて行く上に必要な、心の支え。具体的には、生きがいを与えるものとしての宗教・愛人・家庭・研究や、自分を高めるための将来の目標などを指す〕」
なお、「―」は辞書でよく使われる記号で語釈の書いてある単語それ自体が入る。それで「心のよりどころ」には宗教の次に愛人が来ていて、それが家庭より先に書いてある! 「新解さん」にとってみれば宗教の次に愛人が心のよりどころになり、家庭はその次なのだ! 「新解さん」の見方がここに表れている(本書257ページ)。
同様のことは「忘れる」の用例にも垣間見える。「妻子を―」となっている(本書324ページ)。あまり他の国語辞典では「忘れる」の用例にこのような例は使わないだろう。
多少横道にそれたが、本書を読んで思ったのは、新明解国語辞典は国語辞書の模範たらんと高い理想を掲げて書かれた辞書であり、社会的批判や風刺も織り交ぜた自己主張のある辞書であるということ。多少遊び心もまじえつつも、真剣に辞書をつくる姿勢には、本書を通じて感心した。
たとえば、第5版で現れた「非加熱製剤」。
【非加熱製剤】血友病などの治療のために米国から輸入された製剤。これがエイズウイルス(HIV)に汚染されていたため、投与された多くの患者がエイズに感染し、死亡した。
筆者も言うようにここには「新解さん」の強い憤りと同時に、歴史に言葉を刻もうとする強い意志も感じる。辞書もここまでその土俵の中で「戦える」のだ。私も「新解さん」にならって、少しでも仕事の中で「戦え」ないかと思った。
夏石鈴子『いらっしゃいませ』 ― 2010/07/12
夏石鈴子『いらっしゃいませ』(朝日新聞社、2003年)
これまであまり女性の書いた小説を読んでこなかったためか、本書のような、普通の女性が働く職場のことを題材にした小説は、私ははじめて読んだ。
著者自身をモデルとして書いたと思えるが、出版社の入社試験にたまたま合格して受付嬢を務めるという話だ。タイトルは受付で仕事する際に最初に注意を受けた言葉。主人公の鈴木みのりは「いらっしゃいませ」を丁寧に語尾を伸ばさず、しかも甘くならないようにという注意を受けた。
就職活動するときも、就職してからも、変な人やイヤな人はいるものだ。私自身は就職活動と呼べる活動をあまりしていないせいか、就職活動に関してイヤな人に会ったことはないが、就職してからは変な人、イヤな人は何人もいた。ただ、そのような人が身近にいても、うまく対応したり前向きに考えたりする本書の主人公の姿勢は、とても好感がもてる。読後感も良かった。
受付は4人態勢で2人ずつでローテーションを組んで受付に立つ。来客の対応だけでなく、代表電話の対応もある。郵便物を各課に配る仕事もある。新聞に穴をあけて閉じたりもする。お茶を淹れたり茶碗を洗ったりするのも仕事。主人公の鈴木みのりの他には、吉祥天女に似た大先輩の木島さんと、入社2年目のぐりんぐりんのパーマの加藤紅子、同じく入社2年目の宮本さんの3人。この宮本さんが結構変な人で、受付の他の面々は悩まされ、気も悪くさせらる。主人公の鈴木みのりも入社早々、帰り際に宮本さんが追いかけてきて「鈴木さん、貯金、いくら?」と聞かれる。いくら同じ職場だからといっていきなりこんなことを聞いてくる人はいないだろう。
受付に「熱海の殿さま」がやって来たり、編集の桃井さんに会いに来た石坂さんという人にみのりが対応したら後でお誘いのお電話がきたり、と受付にはいろんな人がくる。みのりその年の12月に編集部に異動となって話が終わるのだが、3人態勢になってしまった受付がその後どうなったのかひとつ気になる。
これまであまり女性の書いた小説を読んでこなかったためか、本書のような、普通の女性が働く職場のことを題材にした小説は、私ははじめて読んだ。
著者自身をモデルとして書いたと思えるが、出版社の入社試験にたまたま合格して受付嬢を務めるという話だ。タイトルは受付で仕事する際に最初に注意を受けた言葉。主人公の鈴木みのりは「いらっしゃいませ」を丁寧に語尾を伸ばさず、しかも甘くならないようにという注意を受けた。
就職活動するときも、就職してからも、変な人やイヤな人はいるものだ。私自身は就職活動と呼べる活動をあまりしていないせいか、就職活動に関してイヤな人に会ったことはないが、就職してからは変な人、イヤな人は何人もいた。ただ、そのような人が身近にいても、うまく対応したり前向きに考えたりする本書の主人公の姿勢は、とても好感がもてる。読後感も良かった。
受付は4人態勢で2人ずつでローテーションを組んで受付に立つ。来客の対応だけでなく、代表電話の対応もある。郵便物を各課に配る仕事もある。新聞に穴をあけて閉じたりもする。お茶を淹れたり茶碗を洗ったりするのも仕事。主人公の鈴木みのりの他には、吉祥天女に似た大先輩の木島さんと、入社2年目のぐりんぐりんのパーマの加藤紅子、同じく入社2年目の宮本さんの3人。この宮本さんが結構変な人で、受付の他の面々は悩まされ、気も悪くさせらる。主人公の鈴木みのりも入社早々、帰り際に宮本さんが追いかけてきて「鈴木さん、貯金、いくら?」と聞かれる。いくら同じ職場だからといっていきなりこんなことを聞いてくる人はいないだろう。
受付に「熱海の殿さま」がやって来たり、編集の桃井さんに会いに来た石坂さんという人にみのりが対応したら後でお誘いのお電話がきたり、と受付にはいろんな人がくる。みのりその年の12月に編集部に異動となって話が終わるのだが、3人態勢になってしまった受付がその後どうなったのかひとつ気になる。
フルトヴェングラーかカラヤンか ― 2010/07/20
川口マーン惠美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書、2008年)
中学生だか高校生だかのときに初めてクラッシック音楽のレコードを買ったのが、確かカラヤン指揮のベルリンフィルハーモニー管弦楽団のベートーベン交響曲第5番「運命」だったと思う。端正な演奏だった。
大学に入ってフルトヴェングラー好きの友人Sから、ワーグナー作曲「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を聞かせてもらったとき、それまで聴いていた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」とは全く違ったのに驚いた。音楽そのものが全く違っている。大学の入学式や卒業式など、それまで聴いていたマイスタージンガーはきれいで、落ち着いた曲だったが、フルトヴェングラーの指揮しているマイスタージンガーは、歌うことが本当に好きで楽しくて喜びにあふれているようなマイスタージンガーという印象で、演奏しているベルリン・フィルもノりにノっていた。クレッシェンドの表現がすばらしい。
また友人Sお薦めのフルトヴェングラー指揮のベートーベン交響曲第5番「運命」は、フルトヴェングラーがナチス協力者とみなされて数年投獄され、ようやく釈放された時の演奏だった。それまでのフルトヴェングラーの苦悩がありありと表現されていて、心を動かす演奏だった。
私はこのようにして友人Sの影響を受けてフルトヴェングラーびいきになったが、世間ではカラヤンの方が知られていることだろう。今から20年ほど前、私が高校生の時だかに来日したことがあり、この時は学校の音楽の課題でカラヤン来日の感想を書いた気がする。
さて、本書を読むとフルトヴェングラーのすばらしさ、カラヤンのすぐれたところがインタビューを通じてよく分かる。古参の団員からすれば、フルトヴェングラーの方が良かったというのは当たり前ともいえよう。自分自身もそう思うが、経験者からすれば、自分が経験したものの方が新しいものよりもすぐれていると思うのは当然だからである。けれども、古参の団員からみても、カラヤンにも優れた点はある。それは音楽を録音することのこだわり、演奏中の映像をより魅力的にみせるにはどうしたらよいかこだわる、など大衆が音楽で力をもつ時代にマッチした指揮者だったことがまず挙げられる。そして、正確さへのこだわり。
一方、フルトヴェングラーのすぐれたところは、単なる指揮者ではなくて作曲者でもあり、指揮棒をふることを越えて音楽の世界にはまり切っていて、その世界を表現するために指揮をしていたことである。
本書を読んで、ふたたびフルトヴェングラーやカラヤン指揮のベルリン・フィルの演奏を聴いてみたくなった。
中学生だか高校生だかのときに初めてクラッシック音楽のレコードを買ったのが、確かカラヤン指揮のベルリンフィルハーモニー管弦楽団のベートーベン交響曲第5番「運命」だったと思う。端正な演奏だった。
大学に入ってフルトヴェングラー好きの友人Sから、ワーグナー作曲「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を聞かせてもらったとき、それまで聴いていた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」とは全く違ったのに驚いた。音楽そのものが全く違っている。大学の入学式や卒業式など、それまで聴いていたマイスタージンガーはきれいで、落ち着いた曲だったが、フルトヴェングラーの指揮しているマイスタージンガーは、歌うことが本当に好きで楽しくて喜びにあふれているようなマイスタージンガーという印象で、演奏しているベルリン・フィルもノりにノっていた。クレッシェンドの表現がすばらしい。
また友人Sお薦めのフルトヴェングラー指揮のベートーベン交響曲第5番「運命」は、フルトヴェングラーがナチス協力者とみなされて数年投獄され、ようやく釈放された時の演奏だった。それまでのフルトヴェングラーの苦悩がありありと表現されていて、心を動かす演奏だった。
私はこのようにして友人Sの影響を受けてフルトヴェングラーびいきになったが、世間ではカラヤンの方が知られていることだろう。今から20年ほど前、私が高校生の時だかに来日したことがあり、この時は学校の音楽の課題でカラヤン来日の感想を書いた気がする。
さて、本書を読むとフルトヴェングラーのすばらしさ、カラヤンのすぐれたところがインタビューを通じてよく分かる。古参の団員からすれば、フルトヴェングラーの方が良かったというのは当たり前ともいえよう。自分自身もそう思うが、経験者からすれば、自分が経験したものの方が新しいものよりもすぐれていると思うのは当然だからである。けれども、古参の団員からみても、カラヤンにも優れた点はある。それは音楽を録音することのこだわり、演奏中の映像をより魅力的にみせるにはどうしたらよいかこだわる、など大衆が音楽で力をもつ時代にマッチした指揮者だったことがまず挙げられる。そして、正確さへのこだわり。
一方、フルトヴェングラーのすぐれたところは、単なる指揮者ではなくて作曲者でもあり、指揮棒をふることを越えて音楽の世界にはまり切っていて、その世界を表現するために指揮をしていたことである。
本書を読んで、ふたたびフルトヴェングラーやカラヤン指揮のベルリン・フィルの演奏を聴いてみたくなった。
夏石鈴子のデビュー作 ― 2010/07/24
夏石鈴子『バイブを買いに』(リトルモア、1998年)
タイトルや表紙は過激だが、内容はとても良かった(なおこのブログの画像はこの本の表紙ではありません。ご興味ある方はぜひ買ってください。角川文庫からも出版されています)。女性からみた、比較的自然な性愛の姿を描いている。
セックスと愛情を女性の目から自然に描いた表題作「バイブを買いに」は、読んでいてほのぼのという気にさせられた。好きな異性を今晩抱きたいな、大事にしたいなという気分にさせられる。
つきあっている男性が、会社の経営がうまくいかなくて主人公の女性の家に住みつき、その間に出来た「子ども」を堕胎する話(「虫の女」)は読んでいてきつかった。私は、そのような経験はないが、女性からみて「子どもをおろす」のはこんなに大変で、複雑な気持ちにさせるのかと思わされた。
それから、「たかちゃん」と「美砂子」の関係が、心ない「たかちゃん」の一言で終わる話(「やっとお別れ」)もはっとさせられた。この話にあるように、多くの場合、男性の何気ない一言や行動が女性を怒らせるのだ。
タイトルや表紙は過激だが、内容はとても良かった(なおこのブログの画像はこの本の表紙ではありません。ご興味ある方はぜひ買ってください。角川文庫からも出版されています)。女性からみた、比較的自然な性愛の姿を描いている。
セックスと愛情を女性の目から自然に描いた表題作「バイブを買いに」は、読んでいてほのぼのという気にさせられた。好きな異性を今晩抱きたいな、大事にしたいなという気分にさせられる。
つきあっている男性が、会社の経営がうまくいかなくて主人公の女性の家に住みつき、その間に出来た「子ども」を堕胎する話(「虫の女」)は読んでいてきつかった。私は、そのような経験はないが、女性からみて「子どもをおろす」のはこんなに大変で、複雑な気持ちにさせるのかと思わされた。
それから、「たかちゃん」と「美砂子」の関係が、心ない「たかちゃん」の一言で終わる話(「やっとお別れ」)もはっとさせられた。この話にあるように、多くの場合、男性の何気ない一言や行動が女性を怒らせるのだ。
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